kanahime5のコピー55

鹿魚姫(21)

 畜神轂南須の眷属嗣堤去は御先走蕃羅致の案内で洋上を廬塢靈塢に向かっていた。不詳の姫神愈許隻を娶らせる為に隅里網渚島から呼び寄せられたのだった。嗣堤去は鰐鮫に顔の半分を砕かれて死んだ。御先走蕃羅致が畜神轂南須に助けを求めたところ、〈顔ヲ薄荷デ埋メタ〉。嗣堤去の頭は冴え渡った。鰐鮫の巣を避けて通るが、海猫の嘴に胸を撃ち抜かれて死んだ。〈御先走蕃羅致ガ畜神轂南須ニ助ケヲ求メタトコロ〉、〈胸ヲ銀デ埋メタ〉。嗣堤去の胸は輝きを放つ。海猫を俊敏に躱しながら船を漕ぎ、廬塢靈塢を目前にしたとき白鯨に飲まれた。御先走蕃羅致は溺れ死んだ。嗣堤去は白鯨の腹のなかで鶩巨伐に会った。鶩巨伐が嗣堤去の〈魂ヲ炎デ焼イタ〉。娯嬪寸なる平鎬諸刃太刀で白鯨の腹を裂き〈魁偉ナル嬰児〉として血塗れの体を海水で洗った。この物語を以藐は思い出し、英雄嗣堤去に自分を投影していた。口碑の損傷、分解、融合が進んでよく分からない。〈不詳ノ姫神愈許隻〉を嗣堤去が得るまでの冒険譚らしい体裁だが、後半部が失われている。姫神の名は〈御先走蕃羅致〉とともにこの断片にしか現れない。霊位経歴が存在しない。唐突に登場する〈鶩巨伐〉も分からない。以藐の頭のなかの表象では〈白髯ノ老人〉の姿をとる。さらに切り刻まれた物語の破片が付着したもののようだ。〈怪物殺シ〉〈神殺シ〉を通過したなら英雄嗣堤去のように以藐は生まれ変われたかもしれないが、実際にはただの〈人殺シ〉でしかなかった。錯覚によって成長したつもりでいる。〈可愛イ〉と言えなくもない。
 弖飛が立ち塞がった。そこを過ぎれば速儺が見渡せる峠のすぐ手前だ。弖飛は眼球を狩ってきたところだった。粟粱を植える早乙女は雁の隊列を模した楔型で畑を前進していく。一陣の風となって〈楔型〉を初夏の陽光に縫い付けるように弖飛は疾走した。二十の眼球を手に入れた。弖飛、「之蒋七の匂いがする。おまえは誰だ」以藐、「以藐」「じゃあ以藐。之蒋七に会ったのか」「あの悪神か。会った。おまえも悪神だな」「いやに匂いが濃い」「髪を持っているからだろう。血も浴びたし」「なに」「殺した」「なんだって」「退治したんだ」弖飛は懐から眼球をぼたぼた落とした。以藐は怯まなかった。以藐、「そうか。やっぱりおまえも悪神か。まとめて殺してやる」弖飛、「非道い男だ」「悪神がなにを吐かす。人の目玉を勝手に抜き取って」聖娼が弖飛に魅入られた、あるいはその逆という複雑な事情は知らず、以藐は単に悪神の夫婦を殺すのだとしか思っていなかった。以藐の体は五百二十一に破り捨てられた。茫烏に啄まれ、食い残しは折柄の驟雨が洗い流した。以藐は地に影も残さず消滅した。弖飛は之蒋七の髪を飲み込んだ。
 責任者が逃げた。〈皮革組合呵瀰樓社ノ臨時寄座〉はそう解釈した。次の手を打つ前に、すなわち次の〈責任者〉を見付ける前に、湯治から帰って来た司農監坐咲戻が帝都当局へ上申に及んだ。司馬府鎮蛮局は直ちに軍勢を速儺に寄越した。八万という異常な大軍勢だった。
 第一鎮、介尉将芭良
 第二鎮、磨類州監嘉看邏
 第三鎮、杼由州監偲而
 第四鎮、抱則屠州監淤歯
 第五鎮、越騎尉彌毘可
 第六鎮、屯騎尉底韋駄
 第七鎮、中塁史楊此凡
 第八鎮、據浪具千戸侯栖登
 第九鎮、例侶要塞司馬将連藍俯
 要するに〈御取リ潰シ〉であった。速儺万封侯敝曾が当圖元年に死去して以来、この地方を統治する万封侯の家系は断絶した。九男三女の子供が全員夭折した為、跡取りがなかった。婀玖舎度大教社の神官と商工業者組合の豪商が中心となって行政機構が再編された。帝都の司徒省官吏を入れず、司農監を抱き込んで自治を行なっていた。〈断絶〉は露骨な婀玖舎度大教社の奸計であり、(〈中央ガ忘レルマデ静カニ暮ラシテ〉いたかった組合とは裏腹)帝都への挑発とも取れた。二十年余りもそのような状況を許していたのは、
〈一〉〈澀美三年、圃離安卿会議〉の一条項を敷衍歪曲して〈如何ナル武力ヲモ速儺ニ持チ込ンデハナラヌ〉という独自の解釈を導き、声高に主張する礼裙社なる右派立憲専制派政治結社が鬱陶しかった。〈モシ匕首一本デモ入レヨウモノナラ断食罷業デ死ヌ〉と社員五百名が自らを人質にとって定期的に帝都へ声明を送り付けていた。
〈二〉婀玖舎度大教社に当今帝の従姉阿須陀が斎宮として偈乳元年に下向していた。〈一〉など気にも留めなかった司馬府にも有効な〈人質〉だった。
〈三〉速儺万封侯敝曾の死の〈ドサクサ〉は先帝不予の期間に当たり、丞相褸辨は思い切った対処に踏み切れず婀玖舎度大教社には〈速ヤカニ旧ノヨウニ戻セ〉と譴責して終わった。そのまま先帝は薨去し、当今帝の〈徳治主義〉が始まった。
 主としてこれら三つの理由があった所為だが、いまや討伐に踏み切ったのは、
〈甲〉悪神退治という大義名分によって強引に援軍派遣出来る。〈司農監坐咲戻ガ帝都当局ヘ上申ニ及ンダ〉領内の不取締を糾弾しつつ畜神轂南須信仰の異端的成分を暴くことで、神官豪商を軒並み処罰可能。
〈乙〉司馬府虎賁郎将麾下の私的間諜〈驚破組〉が斎宮阿須陀と連絡を付け、脱出と保護の手筈を完璧に整えた。
〈丙〉例侶要塞司馬将連藍俯夫人當爾箭が樓辨における第八十八回騰移衞宮記念植樹祭に出席した際、講壇で原稿の〈若葉耀ウ〉を〈ワカバニオウ〉と発音した。つい十日前に右派立憲専制派政治結社礼裙社が帝都に送付した嘆願書には〈嘆願〉の内容が全く見られず、〈若葉ガ匂ッテハ大変デスネ。悪臭芬々タル式典ダッタデショウ〉などとこの誤読を嫌らしく皮肉ることに終始していた。例侶要塞司馬将連藍俯が激昂した。
〈丁〉この年の速儺山岳地帯は例年以上に気象が不安定で、長雨と速儺颪が殆ど交互に春の間中続いた。それが貂鼬の毛皮を洗い、引き締め、五十年に一度の毛並と色艶になり、空前の高値で取引されている。少府宗生吏樂豆足は貂鼬皮を接収すれば挙兵の費用を賄って余りあり、帝廟が抱える借款に補填して三分の一を返済できるという見積を提出した。
 討伐しない理由より討伐する理由のほうが一つ多い。よって、例侶要塞司馬将連藍俯が昭陽舎で上臈監を務める伯母を通じて帝に働き掛け、討伐の勅諚を得る。出陣の前に〈琶桴ノ役〉とすでに名付けられた戦いだった。〈戦イ〉だろうか。一方的な虐殺だ。審問という名の拷問によって〈畜神轂南須ハ悪神デアル〉と軍使として本陣へやって来た婀玖舎度大教社枢教理謂迩に明言させた。速儺の全臣民を異端と見傚し、〈破邪〉の剿滅作戦が開始された。〈悪神ヲ討チニ来タラ豈図ランヤ助ケヲ求メル者ガ悪神ダッタ〉というような論理が成立した。〈ゴタクサ〉を惹き起こしたそもそもの原因である弖飛は忘れられた。もう必要がなかった。

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