主観的文脈と客観的文脈が重なりに必然性が生まれる

こんにちは。初代めいこと日下部です。
文脈思考がめいにとって当たり前の前提になっていたため気づかなかったのですが、私と扇沢の思考法のきっかけがよく似ていてびっくりしました!

扇沢の思考法のきっかけはこちら。

文脈には主観的なものと客観的なものがあり、それぞれに大切な役割があると私は考えています。今日はその2つの文脈について、めいの具体例を交えながらお話しできればと思います。


①主観的文脈

主観的文脈は、その文脈を用いる当事者が何故その行為をするのかという情熱やモチベーションを伝えるのに大切な役割を果たします。
主観的文脈は、物語(ストーリー)と類似しているのですが、大きく異なる点があります。それは、物語は過去を描くのに対し、主観的文脈は未来も見据えた点を繋いだものであるということです。

私は高校時代、アーティスト支援をしたいと思って京都にやってきたのですが、そのことには画家だった母の自死が関係していました。母の気持ちを理解したい→アーティストの気持ちを知れる機会が欲しい→相手の気持ちを教えてもらう代わりに私からもギブしたい→芸大が多い京都でアーティスト支援がしたい ということが私の物語です。
アーティストや支援の定義を大学4年間で考え抜く中で、やりたいことを本気で追求している人と伴走した人生を歩みたい、という抽象性に落とし込まれ、今のめいの事業を行うにあたっての主観的文脈となりました。


②客観的文脈

「知らんがな!」と冷たい言葉を浴びせられる可能性を秘めているのが主観的文脈の切ないところです。客観的文脈は、そんな『想いを伝えよう』としてうまくいかない悲劇のヒロインを助けてくれる、『伝わる情報』を与えてくれる頭脳派ヒーローとも言えるかもしれません。

私は普段、文脈という言葉よりは、"時代性"や"普遍性"という言葉をよく使うのですが、客観的文脈は個々人の体験や経験ではなく、時勢を反映しているものとめいでは定義しています。

私たちは、めいのミッションやバリューを決める初めてのミーティングで、幸せの定義について話し合いました。
前の扇沢の記事にもあった通り、私も扇沢もお金持ちも貧乏も、家庭崩壊も幸せも経験する中で、『仕事と家族(仲間)の両立』ということをブレない価値観として捉えました。
これは、主観的文脈からくるものでしたが、どうして自分たちがそのように感じるのか、そのように感じる同世代は自分たちだけなのかと考えた時に、実は客観的文脈があるのではないかということに気がつきました。
人口構造も変われば産業も変わり、世界行政も自然環境も変わる中で、従来の暮らしや働き方や街の構造に歪みがこない方がおかしな話です。
「関係が変化し、状況が変化して展開し、物語が生まれる。」と脚本家坂元裕二氏は言っているのですが(ラブストーリーは突然に!)、常に人類は変化することで物語を展開させています。変化がない時には変化がないことへの不満を爆発させて変化を生み、前に進もうとするのです。

私たちは現代日本で、少子高齢化と核家族化、供給過多と需要多様化、大企業神話・年金制度の崩壊、スマホの身体化などを経験する中、ゆりかごのように、地域コミュニティ、非合理主義、ポジティブなニヒリズム、リアルな体験を大切にするようになりました。
正確には変化ではなく進化、ゆりかごではなく螺旋階段をぐるぐる回るように、地縁血縁ではなく選択縁、選択的非合理主義、お金より時間、情報と物質の中間の行き来(ライゾマティクス!)が優先される時代になると思います。
それぞれについてもっと語りたいですが尺が長すぎるのでまた機会があれば…!


客観的文脈を頭脳派ヒーローと言ったものの、情報だけでは「だからなんやねん」感が否めない=想いは伝わらないかもしれません。それは、誰にでも語れるものだからです。
結局のところ、主観的・客観的文脈の両方が、人に想いが伝わる&共感してもらうのに必要なものなのではないかと思います。

「主観的文脈と客観的文脈が重なったところに自分たちが事業をやる必然性が生まれる」。そういう気持ちで私たちは文脈を大切にしています。またね!

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