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[0円小説] ぼく、恋愛小説家になります。あるいは、白紙へと戻り鎮まれ恋しんぼ

またもや指令が来た。指令と言ってもただ一言、恋愛小説家というだけ。

恋愛小説家になれ、ということか。

ジロウはそう考えて、ソフトスーツケースの上に載せた電子石板に向かって青歯鍵盤を叩き始めた。

  *  *  *

恋愛は一生の一大事である。

……と言った作家がいてもよさそうなものだが、ぱっと電脳網で検索した限りでは、それらしいものは見当たらなかった。

青空文庫にある坂口安吾の「恋愛論」が出てきて、ちょっと読んでみたくも思ったが、そういう寄り道はとりあえずやめておいた。とにかく前に進むのだ。

と思いつつ、夢想の車輪は回る。徳田秋声、島崎藤村、坂口安吾の三人を並べて女を巡る男のあり方をいずれ論じてみたいのだ。そのときにはこの文章も味読することになるだろう。来るか来ないか分からぬそんな未来図絵がジロウの心に軽やかな興奮をもたらした。

ところで、俺の肩書きは何ていうんだったっけな。

ふとそう思って、ジロウは過去作「ディラックの海猫飯店」を読み返し始める。

https://note.com/tosibuu/n/na33f8f9569c7

何を書いたかほとんど忘れていたが、読んでみると案外おもしろい。これはひょっとしていけるかもしれん。……などと悦に浸る気持ちがひたひたと身の内に沸いてきて気持ちがよい。脳内にドーパミンとかいう物質が溢れているのだろう。

文章にはかなり難があり、構成もテキトーすぎるから、かなりの推敲を加える必要があるが、この連作に相当のふくらし粉を混ぜこねて膨らまし、もう何編か加えて一冊の分量まで持っていけば……。

そのときサブロウの声が、ジロウの脳内に響いた。

(兄貴もいい加減にそういう子どもじみた夢は捨てて、もうちょっとまともな仕事でもしたほうがいいんじゃないの?)

サブロウ、お前が俺を心配してくれる気持ちは分かる。だが、俺には俺の道があるんだ。万事無能の夢見探偵、それが俺の肩書きだ。母の許しを得てあと一年、還暦を迎えるまでは俺が幼い夢を見続けるのを、そっと生ぬるく見守っていてくれ。

と、いささか芝居じみた言葉を綴りながら、ジロウは次の展開を考えた。

  *  *  *

そう、恋愛小説作家が本題なのである。恋愛小説作家になること。これこそ人生の一大事である。

ところで皆さん、この一大事という言葉なんですが、実はもともと仏教用語だったってこと、知ってました?

後生大事も似た言葉になりますが、死んだら極楽浄土に往生するのが凡夫である私たちにとっては一番大事なことであり、そしてまた、この世にそうした尊い教えを授けてくださるお釈迦さまが現れたことこそが、まさにこの世にとっての一大事であると、そういう意味の言葉だったんですって。

何しろ生きてると、つらい苦しいことばっかりですもんね。死んでまで地獄に行ったら、もう目も当てられない。そんなことにならないように、日頃から神さま仏さまにはきちんとお祈りしとかないといけませんよねー、おほほほほ。

と、いうわけであるから、恋愛小説作家になるからならぬかなどということは、実際のところは一大事でも何でもないのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なむみょうほうれんげきょう、なむかんぜおんぼさつ……。

だがしかし、俺にとってあの失恋は人生の一大事だった。

ジロウは電子石板から顔を上げ、遠い目で眼前の白い壁を見やった。左後ろではいつものごとくインド製強力扇風機の轟音が響いている。首をぽきりと鳴らして目をつむると、過去の幻影が次々と脳裏に浮かんでは消えていった。

  *  *  *

あれは1984年、ジロウが二十歳(はたち)になる年のことだった。

1984年と言えば、のちにオウム真理教となるオウムの会が、東京渋谷でヨガ教室として始まった年になるのだが、しかし当時のジロウがそんなことは知るわけもない。

オウムが真理党として衆院選に大量の候補者を立て世を騒がすのは、その六年のちの1990年のことだ。そして地下鉄サリン更に五年後の1995年の話になる。

オーウェルの小説の題名にもなったその年に、一浪して大学に入ったジロウだが、若い頃はsf小説にかぶれていた。ある日、そんなおたく的友だち関係のつながりから、十人ほどの男女のグループで東京ネズミーランドへ行ったのだ。

あのときあの女と一緒にホーンテッドマンションに入ることさえなければ……。

自分の人生はまったく違ったものになっていたに違いない。

過ぎ去った日々を振り返りながら、ジロウは思った。

  *  *  *

その頃つるんでいた連中は、大体が中学から高校にかけての友だちで、その中の一人にユヌブユシという奴がいた。問題の女は、そいつの高校時代からの彼女だった。

ジロウはユヌブユシとは親しくしていたので、高校時代からその女のことは知っていた。そして、ユヌブユシに連れられていつの頃からか女はジロウたちのsfファングループに加わることになったのだ。

その後ユヌブユシと別れたあとも、女はそのままその交遊関係の中に何食わぬ顔で居座り続けた。振り返って考えれば、いかにも危険な女である。

だが、コミュ障で奥手のジロウに、そんなことが分かるはずもなかった。

そうして、ホーンテッドマンションの死の車に、運悪くも女と二人乗り込んだとき、ジロウの地獄行きは決まったのだ。

自らの運命を知らないジロウが、同い年の女と二人、お化け屋敷のアトラクションの乗り物に乗る僥倖(ぎょうこう)に密かに打ち震えていたことは言うまでもない。

魔物に取り憑かれた屋敷の暗闇を進んでいくバギーの中で、やがて彼女の手がジロウのももに置かれた。ジロウは固まったまま身じろぎもできなかった。その場で何も言えなかっただけではなく、その日彼女に向かって、そのことについて一言でも口にするべき言葉がジロウにはなかった。いやそのことだけではない。他の何事についてもジロウは女に話す言葉を持たなかった。何も起こらなかったかのように素知らぬ顔で振る舞う以外、ジロウには対処の方法がなかったのである。

つまりその日は、それ以上まったく何もやり取りのないまま、ジロウは女と別れて帰ったのだ。

しばらくすると、彼女から手紙が来た。そうして、何回か手紙をやり取りするうちに、二人は深い関係になった。ジロウにとっては初めての大人の恋だった。

しかし、関係は長くは続かない。

その自由奔放な女と良好な関係を築くだけの力量が、幼く身勝手なジロウにはまったく欠けていたからだ。

天国に昇ったかと思うと、地獄に突き落とされることになった一夏の恋。

その頃のことをありありと思い出すことになって、ジロウはため息すらつくことができなかった。体全体に悲しみともつかぬ猛烈な感情がみなぎる。その感覚を味わいながらジロウは一旦青歯鍵盤から手を放した。

  *  *  *

「とまあ、そんな小説を書いてるんですよ」そこまで話すと、ジロウはお茶を飲んで喉を潤した。

久しぶりに帰国したジロウは、元職場の先輩ウーイさんのうちを訪ねていた。ダンアン都市線沿線のカヴァサキ市に位置する団地風鉄筋アパートの一室である。

「へー、相当つらかったんだろうねー」ウーイさんは相槌を打ちながらビールのグラスを空けた。「ぼくはこのあと日本酒にするけど、お茶もっとほしかったら言ってね。あとお腹が空いてたらご飯もあるし」

「ありがとうございます。まだお茶で十分です」

「で、そのあとはどんな?」

「いや、どうもこうもありませんよ」ジロウの声は一段高くなった。「何とかよりを戻したかったけど、そんなことできやしないし、忘れたいと思ってると、こっちのバイト先にあとからその女が出入りして来たりして、頭おかしくなりそうでしたよ」

「うーん、そりゃ大変だー」

「新しい彼女でもできりゃ、もう少し何とかなったでしょうけど、それなりに頑張っても俺みたいなダメ人間に惚れるような女はなかなか現れないし」

「そんなもんかねー」

「いやあ、そりゃそうですよ。ウーイさんは人間ができてるから、ぼくのようなダメ人間の現実は分からないでしょうね」

「いやいや、そんな」

「まあ、とにかくです、今になって冷静に振り返ってみれば、そしてこっちの立場で勝手な悪口を言わせてもらえば、あれは本当にとんでもない淫乱変態女でしたよ」そう言って、ジロウは台所の方に視線をやった。

台所ではウーイさんの奥さんのアエノさんがつまみの準備をしてくれている。ウーイさんの方はと見ると、その淫乱変態女の話をいかにも聞きたそうな目でこちらを見ている。

「でも、その話は今はやめときましょう。それはまた二人のときにゆっくりと」声を抑えてそう言うと、ジロウは網一口お茶を飲んだ。

そこへアエノさんが出来上がったつまみを持ってきてくれた。「お肉はあんまり食べないのかな?」

「普段はほとんど食べないですけど、出るものは何でも食べますから。ああ、これはとろっと煮えておいしそうな豚と大根だ」

そうしてアエノさんも座に加わり、ジロウはまた話し始めた。

  *  *  *

この間ね、うとうと昼寝をしてたらおもしろい瞑想状態に入ったんですよ。

恋愛小説を書こうとしてたからか、彼女のこととか思い出して、恋しくて切ない、悲しいような気持ちが湧いてきたんですね。

そうするとその気持ちというのが、体の感覚も交えてひとまとまりの生き物のように感じられるんです。

で、そこに恋しさがある以上、その恋しさの対象も一緒にありそうなもんなのに対象はまったく存在しないんですね。

対象がないままに、感情や感覚がひとまとまりになって、それ自体が一つの生き物として存在している感じなんです。その生き物を恋しんぼと名付けたんですがね。

で、その恋しんぼが自分の中で初めて生まれたのは、彼女との関係がきっかけになってると思うんです。もともと母との関係でその萌芽はあったに違いないんでが、彼女との関係が刺激になってはっきり現れたわけです。

それでです、彼女とのことがあってから長い年月が経って、そいつは今はもう彼女とは切り離されて、別個の命を持った生き物となっている。

そしてそいつは対象を求めて周りをうかがってるふうなんです。対象を求める欲求のエネルギーがそいつの原動力のようで。

そんなことがありありと感じられたんですよ。

長い間この恋しんぼは失われた彼女と結びつき、また、その経験を通してよみがえった母親との満たされない関係に結びついていました。

だもんで、二十歳のとき以来の彼女に対する想いにどう対処したらいいのかというのが、ぼくの人生の大きな課題になっていたわけです。否も応もなくそのこととは長い時間をかけて取り組むことになったんですよ。

そして、そこから遡って母親に対するこじれた感情ともずいぶん向き合い続けることになりました。

その結果、今はもうその感情と女の記憶との結びつきはほとんどなくなって、痕跡が残ってるだけってくらいにまでなってるようなんですね。つまり、事実上の切り離しができてる。

すると、恋しんぼは未だに生きてるし、今も対象を求めて機会を窺ってるんだけれど、もう暴れまわるような力は持ってなくて。いわば、対象を求めるエネルギーだけが亡霊のように残ってる状態ってわけで。

だから、この恋しんぼの亡霊を成仏させてやるのがこれからの課題だなと思いまして。

  *  *  *

ウーイさんは頷きながら、そしてアエノさんは何も言わず静かにじっと、ジロウの話を聞いてくれた。二人の存在自体がジロウから溢れる想いを受け止めてくれていた。同じ時間を共にできることのありがたさが、ジロウの体の隅々の細胞まで満たしていった。

  *  *  *

ここまで書くとジロウは腹が減ったなと思った。もう夜の七時になり、外はすっかり暗い。

こんな文章を読んでも誰も恋愛小説とは思わないだろう。しかし、人がどう思うかは二の次だ。これが今の俺にとっての恋愛小説なのだ。

まあとにかく、今回はこんなところだ。これからいくらでもこの世界と人間たちにまつわる愛やら恋やらの話を書いて、恋愛小説家になってやるさ。

そうやってジロウは、いつもながらに自分勝手な理由をつけることによって、このどうにも生きにくい世界とのざらついた界面を、少しでも自分にとって安全なものとして構築しのうと足掻き続けるのだった。

秋分も過ぎて涼しくなり、心地よい空気に包まれるようになった夜のハリドワルの賑やかな通りへ出て、屋台でフライ・バーガーでも買って食おう。

バンズを丸ごと程よく揚げて、温かくさくっとした食感にしてから、首の皮一枚つないで切れ目を入れ、その間にキウリ・トマト・赤タマネギの薄切りとパニールを一片[ひとかけ]、そしてよく揚げてかりっとしたマッシュポテトのパテを挟む。油まみれのジャンクフードだが、これがぴり辛のケチャップやバジルソースと相まって実にうまいのである。

そう、それが今のジロウの一日を締め括る、ささやかな楽しみなのだった。

#恋愛小説 #小説 #エッセイ #白山羊派 #ネムキリスペクト

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