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[心象異匠] 好ましい光の中ただ心で漂う - あるいは、瞑想の核心を巡る迷宮

  1. ミラレパと夢見

ケイさんという物書きの友だちが、初めての瞑想合宿を前にミラレパの本を読んでいる。

ミラレパというのはチベット仏教の伝説的な聖者で、修行時代に師匠から家を建てるように命じられる逸話がある。

苦心して立派な家を建てると、師匠はそれを壊せと言う。師匠の言葉には逆らえないので、ミラレパは家を壊す。

すると師匠は、また家を建てろと言う。言われたからには、ミラレパはまた建てる。また壊せと言うので、壊す。建てろと言われては建て、壊せと言われては壊す。ミラレパは黙々と繰り返される指示に従い、やがて悟りを開いたという。

ジロウがミラレパについて知っているのは、その話だけだった。

するとケイさんが公開日記に、
「夢と目覚めの間にいかなる相違も感じぬものは、真の実修の領域に到達せり」
というミラレパの言葉を紹介していた。

なるほど、チベットの金剛乗でも、夢と現実を同一視するのだなとジロウは思った。

ジロウはカルロス・カスタネダの本が気に入っており、そこに書かれた夢見の練習を少しはしていたので、夢と現実の同等性については体験的な理解があった。

カルロスは1960年代にカリフォルニアの大学で文化人類学の勉強をしていた人物である。その現地調査の一環としてメキシコで幻覚性の薬草について調べているうちに、ドン・ファン・マトゥスと呼ばれる呪術師(シャーマン) に出会い、弟子入りすることになる。その十年以上に及ぶ修行の経験をドン・ファン・シリーズとして本に書いたのだが、アメリカの正当な学者からは事実にもとづかないただの創作として扱われている。

それが創作なのか実話なのかはともかくとして、カルロスが書いた本に他では聞いたことがない知恵に至る実践法が詰め込まれていることは、ジロウには明らかだった。

ジロウがドン・ファンものを初めて読んだのは、もう二十年以上も前のことだ。

その頃ジロウは、オヅ半島のつけ根のクンネミ町にある薬草園で仕事をしていた。

畑には立派な農具小屋が建っている。といっても農具小屋というのは法律上の名目で、実際には雪深いヌウガタの古民家を移築した立派な和風の家屋なのである。

その移築されてモダンな装いとなった古民家は、タウキャウのルップンギで開業する漢方医が薬草園つきの別荘として建てたもので、ジロウは月に十日その畑を手伝っていたのだ。

古民家の二階には、主(あるじ)の書斎兼寝室にあって、そこには数十枚のLPレコードもあれば、数百冊の蔵書もあった。

その蔵書の中に、ドンファン・シリーズの四冊め「力の話」の原書があったのだ。

古民家の屋根裏部屋をねぐらにしていたジロウは、"the tales of power" のペーパーバックを読み始めて、そこに書いてある夢見の方法に興味を持った。

カルロスが書く夢見というのは、心理学では明晰夢と呼ばれるものを使った修行法で、夢の中で夢を見ていることに気づいている、そういう夢を見ることによって、寝ていて夢を見ている時間にも、昼間の起きている時間と同等の重みを与え、修行の効率を最大化するものだった。そして、それを実現するには夢の中で自分の手を目の前まで挙げて見ればいい、というのだ。

そんなことができるかどうか分からないが、とにかく試してみようと思って、その晩ジロウは布団に入った。

ジロウは寝るのは得意なので、横になるとすぐに寝てしまったが、夢の中で手を見ようという意志からくる緊張があるので、一時間半もすると目が覚めた。よし次は手を見るぞと思って寝るが、また一時間半後に目が覚める。レム睡眠のサイクルで眠りが浅くなるたびに目が覚めるようだ。さあ、次こそはと思ってまた眠る。また目が覚める。

そんなことを繰り返しているうちに、夢の中で手を目の前に挙げている自分にジロウは気づいた。見ているうちに手が変形し始める。見ているものが変形したら別のものに視線を移せと、本には書いてある。それで夢の中で視線を動かし、他のものを見る。するとそれがまた変形し、また視線を動かす。何度かそれを繰り返すうちに夢の意識は失われ、目が覚めてしまった。

夢見の内容は大したものではなかったが、やろうと思って試したその晩に、初めての明晰夢が見れたことに満足して、ジロウはまた眠りについたのだった。

  1. 簡単なのに難しいブッダの教え

初めての夢見は一発でうまくいったが、そのあとはそうそう簡単にはいかず、夢見をするぞと思って寝ても、必ずしも明晰夢が見れるわけではなかった。

時々見れるときにも、つい空を飛ぶ快感に溺れたり、性的な欲求に邪魔をされて、無意識の深層に迫るような夢見はなかなかできなかった。

そのうちわざわざ夢見をしようと思うこともなくなったが、自然に夢見ができることはたまにあった。

ひと月ほど前にホユヒさんが出てくる夢を見た。ケイさんと同じくヌートというネット上のサービスでの知り合いだ。

ジロウの夢には現実の知り合いが出てくることはほとんどないので、彼女の夢を見たということ自体が、心の奥底で何かが動いていることの徴しだったに違いない。

彼女に導かれてバスに乗ったぼくは、いつの間にか透明の乗り物に乗っているかのように、一人で街中を通りに沿って滑空していた。テウランドを思わせる亜州の雰囲気が漂う街だった。

夢見の意識を続けるのは難しく、ちょっとした弾みで夢の状態から意識は逸れてしまい、そうするとどうしても目が覚めたりしてしまいがちなのだが、このときは逸れかけてもうまく修正することができて、今までになくとても長い間、夢の街を滑空し続けることができた。

瞑想の成果がこういうところにも現れているのだろうとジロウは思った。

で、瞑想の話だ。

ケイさんの日記にもあったが、瞑想の本質は必ずしも忘我の状態にあるわけではない。というよりも、忘我の状態に入れることは悟りの目安にはなるが、覚醒の純度の高さを表すとは限らないのだ。

ジロウが思うには、仏教の祖として崇められるゴータマ・シッダルタの教えが優れているのは、深い忘我だけでは得られない苦しみを離れた境地を探求する方法を網羅的に伝えたところにある。

そして初期のパーリ経典を参照すれば分かるのは、瞑想はどちらかと言えば悟りに至る手段でしかないのであって、悟りの内実は日々の暮らしの中にあるのだ。

余計な好き嫌いをなくし、感情に振り回されないように気をつけ、いつも落ち着いて、正しく考え、言葉を使い、行動する。

これだけのことで誰でも余計なストレスをなくして幸せな暮らしが送れるようになる。

それがブッダの教えの基本なのだ。まったく単純明快な話である。

けれどもその単純な話が、実行するとなると、まったく簡単ではない。

生まれ落ちてから育ってきた過程で、染みついてしまった悪い癖がいっぱいあり、しかもそれは心の無意識の層でうごめくものだからだ。

悪い癖をなくしていくためには、一瞬一瞬「自分は今きちんと気づいているだろうか」と問いかけることも役に立つし、座って呼吸に意識を向けるなどのいわゆる瞑想も、こうした目標があってこそ大いに役に立つわけである。

そして、とジロウは思った。これだけのことが分かっていながら、実践がともなわないのが、自分の現状というわけだ。

  1. 確信がなければ核心に迫れない

夢見もそうだが、瞑想の難しさは上達の度合いがなかなかはっきりしないところにある。

たとえばあなたが瞑想に興味を持ってはいるが、まだ全然経験はなくて、まず試しに今から五分間だけ静かに座ってみるとしよう。

椅子に腰かけるなり、座布団にあぐらをかくなり、楽な姿勢で体から力を抜く。鼻で息を吐いては吸ってを自然に繰り返し、意識は呼吸に向ける。これを五分間続けるだけで、少し気持ちが落ち着くのを感じる人もいるだろう。

もちろん、五分間ずっと呼吸に意識を向け続けることは、普通の人にはできない。いきなりそれができる人は、瞑想はやったことがなくても、それに似た何らかの練習を積んだことのある人に違いない。

普通ならば、一分もしないうちに何かを考え始めてしまうだろう。

「あと何分かな」とか「こんなことして何になるんだろう」とか。

そんなふうに考えているのに気づいたら、また呼吸に意識を戻す。

鼻から息を吐き、鼻から息を吸う。鼻から出てゆく息の流れ、鼻に入ってくる息の流れを感じる。そうしているうちにまた何かを考え出す。「考えちゃダメだ」とは思わなくていい。いや、思わないほうがいい。これはダメ、あれはダメという考えは取り合えず横に置いて、ただただ呼吸に意識を向ける。

初めてやるときには、このたったの五分が案外長く感じられるかもしれない。

けれどもそこで、これはいいかもしれないな、という感じが持てたならば、あなたは一歩前進したことになる。

さてこの五分間の瞑想を、例えば毎朝起き抜けに、まずは一週間、そして十日、さらにひと月、ふた月と続けることができたとしよう。

普段は特別に瞑想の効果を感じていなかったとしても、ある日あなたはこんな経験をするかもしれない。

一日が終わってお湯を浴びているときに、今日は一日やけに調子がよかったなと思う。いつもだったらイライラするようなことにも落ち着いて対処ができたし、ストレスを感じることもなかった。これってひょっとして瞑想のお陰だろうか。

こういう経験は瞑想を続けることさえできれば、遅かれ早かれやってくる。

ただしそれがいつ来るかは分からない。

人によっては、初めて五分間やっただけでも、自分の中で何かが変わったのを感じるかもしれない。

別の人は一年やっても何も感じないかもしれない。

すると、その進んでいるのか進んでいないのか分からない状態に退屈して、あるいはうんざりして、練習を続けるのが難しくなってしまうというわけだ。

仮に瞑想の効果を劇的に感じたとしても、同じことが起こりうる。

瞑想を続けているうちには、「これってひょっとして悟りってやつ?」と思ってしまうような劇的な経験をすることもある。

すると、もう瞑想はしなくていい、と勘違いしてしまう。

あるいはそういう勘違いはしなくても、一時的に高い状態でしかない「悟りもどき」はしばらくするとどこかへ行ってしまうので、がっかりしてもう瞑想はいいや、と思ってしまうかもしれない。

逆にその「悟りもどき」に取り憑かれて、何とかそれを再現しようとするが、うまくいかなくて、瞑想の練習が見当外れの方向に向かってしまう。

瞑想の練習には、このように色々な落とし穴が待っているのだ。

そこで一つ大切になるのが、瞑想には確かによい効果があるという確信を育てることであり、もう一つは自分の練習の仕方が間違っていないかを確かめることなのである。

どうすれば正しく瞑想の練習ができるのかについては、また別の機会に書くことにするが、ようやく話が核心に迫ってきた。

  *  *  *

ジロウはそうして空き瓶に入れて流す伝言を綴った。

  1. 中空の核心と梵我一如

とまあ長々述べてはきましたが、意識を今ここにきちんと置く、というのが実はブッダの教えの核心でして、といっても、核心というのは実は一つではありませんで、慈悲心こそが核心と言うこともできますれば、あるいは平常心こそが核心であるとも言えますし、逆手を使えば、仏教に核心なしと言うのもまた正しい物言いになりましょう。

しかしまあ、こんなことを言い始めると禅問答の蒟蒻問答で、わけが分からなくなっちまうのがいつものおいらの悪いクセでございますから、少し方向を訂正いたしましょう。

つまりお釈迦さまは対機説法で、相手に応じて説明の仕方を変えたわけでございます。

ですから、瞑想の基本が分かっていないものには、意識を今ここに置くことこそ大切ですよ、と説き、他者に対する思いやりの足りないものには、慈悲心こそが一番大事なことですよ、と言い、感情に振り回されやすいものには、平常心をこそ身につけなければいけませんよ、教えたわけです。

ですから、仏教の核心は何なのか、と考えるのではなく、自分にとって今足りないのは何なのか、ということこそを考えるべきなのでございます。

  *  *  *

そこまで書くとジロウは思った。おれには足りないことばかりだ。あっちにも穴が開き、こっちにも穴が開き、せっかく少しは溜まったはずの何かも、じきに穴から洩れ出してしまって元の木阿弥。

いっそ一から出直して、まずは穴の繕いから始めたほうがいいってことだ。

瞑想を始めて十二年とは言うものの、始めのうちはロクに練習もしていなかったから、少し真面目にやり始めてたかだか五、六年、これを本気で仕上げようと思ったら一体あと何年かかることか。

そもそも瞑想を仕上げることなどできるものか。

一生ものの大仕事に決まっているし、一生では済まないこともあるが、あきらめずに頑張れと経典には書いてあるではないか。

じき始まる、初めての三十日の瞑想コースを目の前にして、ジロウは珍しく大いに気を引き締めて、一からやり直す心持ちを暖め始めていた。

ケイさんからもらった「好ましい光の中ただ心で漂う」という句を大事に懐(ふところ) にしまうと、書き上げた伝言を電子空き瓶に封じ込み、電脳網の大海原へとジロウは放り投げた。

#小説 #エッセイ

☆あとがき

本文にも書きましたが、じき三十日の瞑想コースに初めて参加します。

今までは二十日のコースが最長で、それだけでも十分深い瞑想状態を経験することができましたが、三十日という時間の長さと今の瞑想に対する静かな信頼が、また新しい体験へと扉を開いてくれるような気がして、とても楽しみな気持ちでいます。

そんなこともあって今回は、夢見と瞑想についてのあれこれを小説形式で書くことになりはしたが、書いていくなかで気づいたのが「繰り返しが繰り返される」ことになったなということです。

ミラレパが、家を建てては壊す。

夢見をしようと思って、寝ては目が覚める。

瞑想をしていると、呼吸から意識が離れてはまた戻す。

物覚えの悪い人間は、同じ失敗を繰り返しては「お前またそんなことやってるのか」と言われるわけですが、ヒト族の人生というものの意味は、何度も何度も同じ失敗を繰り返しては、その中で何かをつかむことにあるのかもしれません。

この繰り返しという素材は、先日書いたウーイさんの「透明な反復」にも通じる話なので、それもまた共時性の顕れという気がして、おもしろく思いました。

「差異のない無数の透明な反復」によってこの世界はできているという、ウーイさんの啓示の話はこちらに書きましたので、よろしければお読みください。

・はい、もう一度。あるいは、人生の難問に対する哲学的かつ仏教的啓示について。
https://note.com/tosibuu/n/nc87176aab4f9

また、本作の出発点となったケイさんの投稿はこちらです。

・余命365か月/二〇二三年九月
https://note.com/nomadmood/n/n14d2ffac328b

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
それではみなさん、ナマステジーっ♬

  *  *  *

三日かけて書いた文章を読み直して、ジロウは心の重荷を下ろした気分になった。

まだまだ気づかずに背負ったままの重荷が無数にあるに違いない。

けれども、それでかまわない。

気がついたときに、手放せるものから手放していく。つまりは、それだけのことだ。

そう思うと、ジロウの体の中に暖かいものが拡がり、目には優しい潤いが滲んだ。

[2023年10月3日、北インド・ハリドワルにて]

☆カスタネダの「力の話」、版元切れらしく、アマゾンで七千円越えの値段がついてるので驚きました。

☆繰り返しという言葉で思い出す本と言えば、カミュの「シーシュポスの神話」。無意味な繰り返しの中にこそ真実が潜んでいるのでしょう。
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