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[0円小説] はい、もう一度。あるいは、人生の難問に対する哲学的かつ仏教的啓示について。

[400字詰め10枚強の随想的お話です]

(さて、そろそろ原稿書きに取りかかるか。寄宿先のヒンドゥー寺の巡礼宿の一室で頭の中そう呟くと、ジロウは電子石板と青歯鍵盤を取り出すとあぐらをかいて想いを巡らせた)

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その国際郵便が届いたのは六月の半ばのことでしたから、すでに三ヶ月も時間が過ぎてしまったことになります。

2010年の四月に日本を離れて以来、数え合わせてみれば十年以上は海外暮らしを続けているのですが、異国の地で郵便物を受け取ったのはそれが初めてのことです。

その郵便というのは、精神福祉の仕事をしていたときの大先輩かつ恩人のウーイさんからのもので、五月に帰国した折りに会い損なったこともあって、彼の人生をかけた趣味である哲学に関わる随想を送ってくれたものなのです。

ウーイさんは市井(しせい)の哲人であって、中国の禅的詩人・寒山や十得を地でいったごとき怪しき風体の人物です。

長らく精神障害を持つ人たちのための作業所で所長を勤めていましたが、訪ねてくる初見の保険師の人から、「通所者(メンバー)なのにとてもしっかりしてる人ね」と言われてしまうくらい浮浪者風の身なりをした、それでいて保険師の方々からの信頼は厚い大人物なのです。

そのウーイさんがしばらく前から考えていた哲学的問いかけというのが、こういうものなのです。自分の体験というものが、外界からの刺激を受けて自然発生的に生じるものであるなら、そのとき「私」という物語が情緒をともなって繰り返し現れてくるのはなぜなのだろうか。

昨年11月にウーイさん宅を訪れたとき、情緒をともなって繰り返し現れる「私」という物語について質問を投げ掛けられたことは何となく覚えています。

けれども、自分がどう答えたかは覚えていません。

「あー、人間というのは情動を中心に反応が形作られてますからねぇ」などと、ずれた言葉を返したような気はするのですが。

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さて、この問いかけに対する答えを検討する前に、ウーイさんがなぜこうした哲学的問題を考えることを趣味とし、人生の課題ともしているかをぼくなりの言葉で説明してみましょう。

多くの人が若い頃に、生きる意味とは何か、なぜこんなに苦しいのに生きなければならないのか、などと考える時期を通過するわけですが、ある種の人々はこれを大人になっても続ける場合があります。

それを中二病と言ったりするわけですが、そうした精神状態の背景には、この現実社会に対する違和感というものがあるはずです。普通の人はそうした違和感を感じたとしても、気にしてもしょうがないものとして何となく忘れていくのでしょうが、それを忘れることができない人もいるというわけです。

今回送ってもらった随想を読むと、ウーイさんの場合、自分の存在が周りの集団から浮いてしまっている、社会から逸脱し続けている、社会に適応できず許されない存在になってしまっている、といった感覚が根強くはびこっているようです。

このような精神状態のもとで、なぜこんな、否定されるべき「私」が生き続けなければならないのか、生き続けて苦しまなければならないのか、この「私」が生じる理由が分かれば、自分の感じているこの苦しみも解決されるのではないか。そんなような問題意識が、ウーイさんの中にはあったように思えます。

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ところで、「私」という物語というのは一体何のことでしょうか。

皆さんは自分の存在をごく当たり前のことと考えて、特に疑問にも思わず、「私は私だ。そんなものについてわざわざ考えるまでもない」と思っているかもしれません。

けれども哲学にかぶれて「私とは何か」などと考え出すと、たちまちややこしいことになります。

私とはこの体のことなのか、それとも心が私なのだろうか。そもそも心とは何だろう。心はどこにあるのだろう。心は脳神経の回路が産み出しているのだろうか。すると脳が私なのだろうか。脳が私なら脳以外の体は私ではないのだろうか。などなどと哲学的連想ゲームがどこまででも続けられることになります。

そこでこのゲームは一旦打ち切って、「私」というものを成り立たしめていると思われる記憶というものについて考えてみましょう。

すると、私たちは人から言われたことも含めて、人生における経験を記憶し、その記憶の内容を反復して自分に言い聞かせることで、「これが自分だ」という感覚を作り上げているのだ、という仮説が提示できます。

つまり、私は地球人だ・日本人だ、私は女だ・男だ、私は美女だ・美男子だ、私は低脳だ・愚鈍だ、私は子どもの頃幸せだった・不幸だった、などなどという物語を知らず知らずのうちに作り上げ、言い聞かせることによって「私はこういうものだ」という自己認識(アイデンティティ)を構築しているというわけです。

そして無意識に行なうこの言い聞かせの際には、その時々の気持ちが合わさって記憶されることになり、日本人で得した「嬉しい気持ち」とか、地球人だったために損をした「イヤな気持ち」とか、そういう感情的な連想をともなって「私」というものが形作られることになります。するとこのことが原因になって、私たちの人生は何かというと感情に振り回されることになり、結果としてどうにも思い通りにならない、混乱した経験の繰り返しにもなりがちなのです。

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ウーイさんが今回送ってくれた哲学的随想には、11月の会話のあとに起こった進展が書かれています。

情緒をともなって繰り返し現れる「私」という物語についての会話から数日が経って、ウーイさんが自室の机の前に立っていたところ、ふいにvisionが現れたのだそうです。

それは彼の体、彼のいる空間が「無数の透明な反復」によって満たされているというものでした。

そして、これが先の問いかけに対する答えとなり、「無数の透明な反復」こそがこの世界を形作っているのであり、「私」という情緒をともなう物語の繰り返しの原因も、この「無数の透明な反復」にこそあったことが分かったというのです。

「それを知った時、私はどんなに楽になったでしょう」とウーイさんは書いています。

つまり、この世界を構成する根元的な要素として「透明な反復」というものを仮定すると、「私」を普通の意味での「主体」として考える必要がなくなり、「私」というものは「透明な反復」が無数に関係し合い、反応し合った結果として現れてくる現象にすぎないことになる。そして関係し反応し合う「透明な反復同士の相互の作用・影響」こそが主体であることになるのです。

「私」というものは「透明な反復同士の相互の作用・影響」の一つの現れでしかないのですから、言わば「誰でもない」ことになります。

「私」は誰でもない。「私」も「私の身体」も「持続」する存在ではない。「私」は存在すらしない。存在すらしないのだから、苦しむ必要もない。

集団から逸脱し続ける「私」という苦しみからの解放が、ここに実現したのです。

ウーイさんはこのことを、頭で考えて言葉づらとして理解したのではなく、長年の精密な思索からくる実感として、体験的に理解したに違いありませんから、そのときのウーイさんの安心がどれほど大きいものだったかは、想像しても想像しきれるものではありません。

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ウーイさんのこの話を読んでぼくが大変おもしろく思ったのは、この体験的理解の道筋が、初期仏教の説くところとほとんど同じであるという点です。

仏教では「透明な反復」に相当するものとして五蘊があります。これは色受想行識という仏教的世界観における五つの根元的要素のことで、大雑把に言えば「肉体と知覚・感覚・記憶・意識」のことです。

そして、仏教では「無我=私は存在しない」ということを主張するわけですが、その意味は、「普通の人が『私』と思っているものは、五蘊が繰り返し関係し反応し合って生じる結果にすぎないので、固定し持続するような『私』は存在しない」ということなのです。これが、ウーイさんのいう「『私』というものは相互に作用し無数に重なり合う反復の1つが顕現したものでしかなく、『私』という実体はない」ということと実質的に同じ意味と考えられるわけです。

そして仏教では、「我」というものが存在すると勘違いしているために人生の苦しみは生じる。逆に言えば、「無我」を体験的に理解すれば、人生から苦しみはなくなる、というのです。

ウーイさんが、「私」という物語は「透明な反復」が産み出す幻想にしかすぎないと気づくことで、深い安らぎを得たことは、まさにこの主張と重なります。

言ってみれば、ウーイさんは自分の体験を通して仏教を再発見したわけです。

そしてまた、このことが更に興味深いのは、初期仏教では、仏典を鵜呑みにしてはいけない、仏典に説かれていることが事実であるかどうかを自分の体験によってきちんと確認しなさい、ということが言われていることに、ウーイさんの再発見が対応していることです。

今までここに書いてきたことを読んだあなたが、「なるほど、透明な反復というものを仮定することによって、『私はない』ということが言えるし、とすれば『私はないのだから、苦しむ必要もない』ということも言えるな」と頭で考えたとしても、それだけでは苦しみから逃れることはできない。

きちんと自分というものを観察して、確かに「私」というものは「透明な反復」なり「五蘊=身体・知覚・感覚・記憶・意識」が反応し合って生じ、変化を続ける現象でしかないことじを実感しなければ、体験的な理解は生まれないし、十分な安らぎも得られないということです。

体験的な理解については、言葉だけで伝えることは事実上不可能なので、このことの説明はこのくらいにしておきましょう。

いちごを食べたことがない人に、いくらいちごの味を説明しようとしても、説明しきれるものじゃありませんからね。

  *  *  *

(まあ、こんなもんだろう。二日がかりでそこまで書いて、ジロウは鍵盤から手を離した。とにかく三ヶ月越しの宿題はこれで完成だ。ウーイ先輩の説については簡略的な説明になってしまったが、長々細かく説明する根気がないのだから仕方がない。そして、生煮えの仏教談義。「こんなもの書いて何になるんだ」といういつもながらの自意識過剰な自己規制が起こってくるのだが、書けば書いたなりに経験が積もってゆくのだし、読んでくれる少数の人にも何らかの波紋を伝わる可能性はある。たとえそれが、現れたかと思うとじきに消えてしまう小さなさざ波でしかなかったとしても、それはそれでいいじゃないか。昨日からやや体調が不調で、寝不足気味なのにも関わらず、よくこれだけ書いたものだと、静かに自画自賛をして、ジロウは昼飯を食うために部屋を出た)

[有料部にはあとがきを置きます。投げ銭がてら読んでいただけたら幸いです]

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