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角無し鬼姫

 草喰いの鬼には角がある。草食い肉食う人には何もない。肉喰いの鬼には何がある?

 空木ウツギは眼鏡のレンズ越しに揺れる稲穂を眺めていた。墨色の羽織袴姿の背格好は人間に近いがその瞳はイヌツゲの実のように黒一色で白目がない。そして短い黒髪の合間、耳の上あたりから左右に伸びる角は骨のように白い。

「やめてくれ……」 

 空木は地面に伏す一人の人間に目を向けた。空木にとって一郎は取るに足りない存在だ。現に何も出来ずにただ鼻からあふれる血で青々とした夏草を汚している。
 一郎の薄汚れた背中を強靱な足で踏みつける着流し姿の男。うねった赤毛の間から三日月のような右角だけが伸びている。あるべき左角は根元からへし折れ、側頭には血止めの焼入れの痕だけが残っている。男に生来の名はもう無い。空木は男を右頭ウズと呼んでいる。

「禁足地に隠田とは」

 空木は屈み、稲の細長い葉をむしり取った。空木の口の中には四角い歯が並んでいる。臼歯ですり潰した瑞々しい一葉を飲み込むとただ一言、右頭に命じた。

「刈り取れ」

 主の声に右頭は応と答える。一郎はもがいた。

「やめてくれ!それは……」
「実りも待たずに刈れば飢えるか?死肉でも口に入れておけ」

 右頭が無造作に一郎を蹴り飛ばす。うめき、血と泥の臭い。すんと空木が鼻を鳴らし、右頭が暗い森を睨む。森の奥で光る双眸がある。

「鬼姫」

 右頭が呻いた。その声には微かな怯えが混ざっている。地を這うような何かがを枯れ枝を踏み折り稲穂をなぎ倒しながら空木に飛びかかった。とっさに首を守った右腕が袖ごと切り裂かれ空木は奥歯を噛みしめる。
 ひるがえった着物の裾に血泥汚れで消えかかった大輪の牡丹が咲いている。鬼姫は顎にべったりと付着した空木の血を手のひらで拭うと、乱れて面を隠す黒髪を払う様に血汚れを塗りつけた。露わになった大きな目、低い鼻。開いた口の中には肉を裂くための尖った歯が並んでいる。

つづく

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