【短編小説】時のご褒美
「今、駅についた。何か買って帰るものある?」
妻は、「ないよ」というそっけない返事だけで電話をきった。もう仕事から帰ってきているようだ。
今日、私は、ほぼ定時で会社を出た。なんとか仕事を処理し、上司の理解も得て、早く帰ることができた。
今の部署へ異動になってから、定時で帰ることができたのは今日が初めてだ。激務で有名な部署で深夜の帰宅や休日出勤も当たり前のようにある。
私が異動になった当初は、妻も働いているため、定時で帰れないことは理解してくれていた。
しかし、私の生活が仕事で占められている状況が丸2年続いたころから、たまに顔を合わせると喧嘩になることが多くなった。最近は、喧嘩することはなくなったが、妻は私と話をしてくれなくなった。
思えば、家事全般を働いている妻に任せてしまって、私は何もやっていなかった。
また、妻が私に話したいことがあっても、疲れているからと、妻の話を聞くこともほとんどしてなかった。
多忙でストレスフルな毎日で、妻にあたったことも何回もあったと思う。
私と妻はもうだめかもしれない。私にも言いたいことはあるけれど、冷静に考えると、妻の不満、怒りはもっともだと思う。逆の立場なら、私も怒るだろう。
それでもなんとかやり直せないかといろいろと頑張っている。今日の定時退社もそのうちの一つだ。
たまに早く帰ってきたくらいでは罪滅ぼしにならないとはいえ、できるかぎりのことはやりたい。
今となってはどうしようもないが、今の部署への異動を断ればよかった。
基本的に異動は断れない。しかし、今の部署だけは断ることができた。あまりに激務だからだ。たた、この部署に異動するということは、出世コースにのることを意味するため、断る職員はあまりいない。私も、出世コースという文字が頭に浮かび、薔薇色の未来しか見えてなかった。今の家に引っ越ししたのは、異動の少し前。新築の建売だった。ローンのこともあり異動を断るという選択肢はなかった。
叶うなら異動の前に時を戻せたらいいのに。私は、そんな気持ちを抱えながら、駅前のロータリーからまっすぐ延びている道路の歩道を歩いた。
比較的幅の広い県道と交差しているところまで進み、そのまま横断歩道を渡った。
すぐに左折し、県道をまっすぐ歩いた。
コンビニが見えたら、そこを右折すれば、自宅前の道になる。
腕時計をみると18時半。気温はまだまだ暑いが、日の入りがどんどん早くなっている。この時間になるとほぼ夜といっていいくらいだ。
コンビニのまばゆい灯りが見えてきた。右折してまっすぐ歩いた。
コンビニの前を通り過ぎ、両脇に民家が建ち並んでいるあたりに差し掛かった。
この辺りの家は、道と同じ高さに建ててある。家の多くは塀がないつくりになっているため歩道から庭がよく見える。
突然、私の視界の右端に、うっすら光る何かが現れた。
驚いた私は、その場で立ち止まって、そちらを凝視する。
進行方向右側の家の庭に、振り子時計がある。壁にかけるタイプではなく、地面に直接置くタイプだ。
私には、今、現れたように見えた。仮にもともと置いてあったとしても、置いてあること自体が不自然だ。
全体が木製で表面はツヤ加工がされているようだ。振り子部分は前がガラスになっていて、振り子が左右に揺れている様子を全面からみることができる。
時計部分は振り子の上についている。時計盤の文字がローマ数字になっている。
全体的に古さを感じさせるつくりである。
庭には、スポットライトは設置されていない。しかし、全体が光っていて、色合い、形、文字盤など時計の細部までよく見える。
そして、驚いたことに、文字盤の針が、結構なスピードで逆回転している。
私は、動揺したのか、元いた場所に戻ろうとコンビニの方を見た。しかし、そこは、暗い道と野原しかみえない。
左側の家にも目を向けた。すると、今度は家の2階部分、窓と屋根の間に鳩時計が現れた。この時計も自身が発光しているのか、色合いや形がよく見える。この時計も針が逆回転している。
もう一回前方をみる、つぎつぎと、いろいろな種類の時計があらわれてきた。
丸い壁掛け時計、置き時計、腕時計、砂時計。アナログの時計だけじゃなく、デジタルの時計もある。
これらの時計が、道の両脇にある家の庭、屋根の上に現れる。空中に浮かんでいるものもある。
それぞれの時計が光りを発している。青みががった光のもの、赤みがかった光のもの、いろいろな色の光りが時計を彩っている。
どの時計も、針が回転している。正回転のものもあるが、逆回転していることの方が多い。
私は、この現実離れをした光景の中を歩いていった。ちょうど、自分の頭くらいのところに浮いている時計に触ろうと手を伸ばしてみるが、時計は一瞬にして消えてしまう。
道の両脇の家の窓をみると灯りがついているところが多い。家の中には現実の生活があるのだ。しかし、家の外は現実とは思えない不思議な世界が広がっている。
私は正気なんだろうか。自分の肉体は、今、ここを歩いていると認識しているが、それは現実なんだろうか。いや、現実とはいったいなんだろうか。
いろんな考えが頭を駆け巡る。
私は、周りを見ながらゆっくり歩き、気がつけば自分の家の前にいた。
私の家には時計はなく、いつもの我が家が目の前にある。しかし、灯りがついていない。妻はもう帰っているはずだ。
私は、解錠した玄関ドアを開け、中に入った。
家の中は真っ暗だ。しかし、玄関のたたきの上に立っているような感じがしない。
それはそのはずだ。私が立っているのは玄関のたたきではなく野原の上だ。
後ろを振り向いてみた。今、開けたドアはもうない。そこには野原が広がっている。
目が慣れてくると、月明かりで周りの様子がだんだんと見えてくる。それでも限界がある。
私はスマフォをカバンから取り出し、画面を表示させた。
その灯りを頼りに野原を歩いてみる。すぐに看板が見えた。スマフォをかざしてみる。
それは、不動産会社の看板だった。新築住宅の建設予定地のようなことが書いてある。
不動産会社は、私の家を買った業者の名前だ。
完成予定年月日も書いてある。
そこには、私の異動前の年月日が書かれていた。
(終わり)
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