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「魔の山」(下巻) 第六章 トーマス・マン 感想文

ハンス・カストルプのサナトリウムでの時間は流れていった。
最愛の従兄ヨーアヒムは、「やけっぱちの出発、資格なしの出発」を決行して、念願の連隊へ戻る為に山を降りた。
ハンスとヨーアヒムを教育しようと、人文主義者のセテムブリーニとその「親友」と呼ばれるレオ・ナフタがこの章を複雑かつ難解に面白くして行った。

「ナフタの運命はセテムブリーニの運命に似ていた」p.59

共に教育者の自覚が強い気質、ハンス・カストルプを取り合いながら自分の思想への正当性を論破し彼らを導いていこうとする。ナフタはヨーアヒムと気が合った。

人文主義者、啓蒙思想家のセテムブリーニと神主体で教会による全体主義の思想を持つナフタ。「フリーメイスンに所属するユマニストと「イエズス会」の敬虔なキリスト教徒では、口論の応酬がどどまるはずがない。
その応酬が難解すぎて、読んでいて気が遠くなりそうだったが、細かく意味を調べながら進んで行くと、それぞれの主義主張がいくつか廻って、同じところに戻るような、そんな部分が何ヶ所かあったように感じた。確かに似ている。

そして二人は、志半ばでこの胸の病の為に共に高みを目指すことを断念せねばならないような悲しい境遇がとてもよく似ていた。

敵対心で憎み合っていたら、「ベルク・ホーフ」を離れ、婦人服屋の上になど同じ場所に住むはずはない。ハンスとヨーアヒム、若い二人を教育することや、人を育てること、また二人が毎日くりかえす激しい討論は、二人の生きる糧、日々の原動力になっていたと、それらなしでは生きられない悲しい弱い身体を思う。
ナフタの父の生涯は、過酷だった。

絹製品に囲まれた豪奢なインテリアのナフタの部屋。
一方、祖父や父から受け継いだ古い家具、「人文的斜面机」、それらを大切に丁寧に使うセテムブリーニの地味な生活、二人は共に何かを隠そうとしているように見える。

イエズス会から資金をもらい贅沢しているナフタは、言行不一致の感があると思われた。
遠く敬意を込めた人間の意志の継続である家具を丁寧に使うセテムブリーニにとても好感が持てた。
共に貧しいのである。

引用はじめ

「ナフタは純粋認識、無仮定的探求、つまり、真理、客観的真理、科学的真理を少しも信じないと公言している」p.213

セテムブリーニ
「形而上学はすべて悪です。なぜなら、形而上学は私たちが完全な社会という殿堂を建設するためにそそがなくてはならない努力をねむりこませてしまうほかには役には立たないからです」p.298

引用おわり

第六章にある膨大なこの論争、応酬、ハンス・カストルプもその論争に興味を持ち共感などするのだが、少し経つと醒めてそれらを忘れてしまうのが現実だった。
取捨選択は重要であり、どちらにも付かないことが懸命で、後の成長の段階で一つ一つ判断し決断して行かなくてはならない。
多くの論争の傍にいたことはとても意味があり、必ず後の生き方に反映すると思う。

ハンスが自分で決断して出かけたスキーで、遭難しかけて見た夢はハンスを感動させた。
「太陽の子」、「彼らの一人一人の気持ちの中にはっきりとながれているひとつの考え方と深く根ざしている理念との力でたがいにいつどこでも示しあうつつましい敬愛の気持ち」p.256という美しい人々のシーンと、それらと対照的に醜い残酷な二人の老婆の姿は、どちらもセテムブリーニとナフタの内面のメタファーではないかと思ってしまった。それほどハンスの頭は二人の論争で混乱していたのではないかと。

ハンスの愛する従兄、自分の病状を、取り乱すことなく口をつぐんで受け止めていた立派な兵士ヨーアヒム、彼の「死」が、見事に第六章を感動的に終わらせた。

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