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「魔の山」 上巻 第四章まで  トーマス・マン   感想文

第四章まで読み終えて、その密度の濃さと隙間のない文字に圧倒された。途中大変さもあったが私にとっては、この緻密さが心地よく満足感を与えてくれた。

まえがきに、「私たちの物語がたいへんとおい昔の話だというのは、この物語がある転回点、つまり、私たちの生活と意識とを深刻に分裂させる結果になった限界線の以前に起こった物語だからである」p.12

「転回点」、「限界線」とは第一次世界大戦のこと、その「まえ」であればあるほど、過去の度合いがいっそう深くなり、物語が完全になるということである。そこには読者はいない。大戦を遡ること10年前のお話である。

健康であると思われる主人公ハンス・カストルプが、結核の従兄(ヨーアヒム・チームセン)が療養している、スイス、アルプスにあるダボスの国際サナトリウム、「ベルク・ホーフ」を訪ねるという物語。ナレーターがいて、従兄と表現されるハンスとヨーアヒムがどちらなのかがややこしかった。

「平地」といわれる彼の生活から「上」の生活へ。その単調さと特殊さは、深刻な病状と死とを隣り合わせにしていても、「自由」で「放縦」に見えるのだ。
「病気と死」は厳粛ではなく、一種の遊山(ゆさん)みたいなものであるとヨーアヒムは言う。

健康に誇りを持つものは、相手にされない環境であった。

引用はじめ

「明日か明後日には再び翼をひろげて、もとの秩序の中に舞いもどることを意識しながら殻をとざそうとはせずにどんなことも近よるににまかせようとする——中略——そのほかに義務感のような気持ちもあった。つまり良心の命令のようなもの、詳しくいうと何となくうしろいめたさを感じている良心の命令と勧告とからセテムブリーニの話に耳を傾けたのであって」p.270.271

引用おわり

セテム・ブリーニというクセのあるイタリア人の文学者の毒舌めいた話にも、平地にもどれるという自負があったから聞けたのであり、彼の思考が相容れないものであってもハンスの見聞を広めたのには充分であったと感じた。
あくまでもその時までは健康という自信のもとにあったハンス・カストルプ。

「愚かな人間は健康で平凡でなくてはならないし、病気は人間を洗練し賢くし特殊にするはずだと考えられています」p.172
というハンスの言葉に、「あなたの演繹法(えんえきほう)には従えない、とばっさりと反論するセテムブリーニは、「澄んだ、好きのない精神」を持っていた。
確かサナトリウムの特殊な環境は、普通に感じること、考えることが当てはまらない。
「楽しい時間は短く、待機し退屈な時間は長い」という感覚もいつか移ろってしまうような、まさ魔の空間であると感じた。

その特殊な繰り返される退屈な日常の中に、ハンスは胸ときめくショーシャ夫人を見つけ、過去の幼い時期に憧れた「ヒッペ」というスラヴ系の少年の魅力的な眼を重ねあわせ、その想いに気づく。

そして三週間という最後の日が遠のけばと思うほどに、生活の中に「ときめき」を見つけてしまうハンス・カルトロプ。当たり前の青春を目の前にしている姿が環境を変化させていた。

お話の最初に戻るが、ハンスが子供の頃、祖父の家にあった洗礼盤に彫られたカルトルプ家の家長を名を見つけ、「おおー おおー」と指差し示した祖父。それは遠い過去から少年に向かって結ばれた敬虔なつながりであった。
保守的な祖父を尊敬し、美しく正しい姿だと思っていたハンス・カストルプ。

そしてその正反対の思想を生きたセテムブリーニの祖父。相容れないが、「どちらも祖父もそれぞれ美しい立派なところがあった」p.267、と二人を称賛していた。

ハンスは見た。数年前にホルシュタインの湖でのたそがれの思い出。西の空はまだ昼の光、東の空は霧にこめた美しい月夜、この「眩惑的で夢幻的な関係」に二人の祖父の生き方が映ったようで、このシーンがとても印象に残った。二人の生きた歴史の壮大さにと時間に重なった。

第四章のラスト、健康であるはずのハンス・カストルプの肺に、病巣と浸潤箇所が発見された。
ほてりは最初からあった。

その医者の態度や言動や会話が現代の事情と酷似していることに驚いた。やや冷たく機械的。時代や国や人種に全く関係なく同じものを感じた。患者は医者の研究材料であることもわずかに伝わる。ハンスはこれから彼らに知己(ちき)を得ることが出来るのか。
五章へ向かう。

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