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「党生活者」 小林多喜二 感想文

「若しも犠牲というならば、私にしろ自分の殆ど全部の生涯を犠牲にしている」p.231
同志の須山や伊藤でさえ普通の生活に帰って行くのに、主人公の佐々木には私生活は全くない。

この政治活動に佐々木が耐え忍んでいられるのは、根本に、「二十年も水飲み百姓をして苦しみ抜いた父や母の生活」を、その甚大な苦しみを身近に見続けていたからであって、自分の犠牲などそれらとは比較にならないという信念があったからだ。

彼に「この幾百万という大きな犠牲を解放するための不可欠な犠牲」を持つという強い信念と使命感は、生まれ育った環境が、この純然たる思いをつくり一貫した思想を決定づけたのだ。

殆どの大衆(工員達)は、意識も浅く、自らの待遇の改善や不満の解消のために、オルグされた運動に傾いて行っても、自分たちが優遇される別な思想に出会えば、すぐに転向していくのは明らかであると思った。それが左であっても右であっても危うくて一貫しない思想は怖さであると感じた。

ビラの評判の良さに喜んだ同志達にSが放った言葉がピタリときた。

引用はじめ

「日常の不満から帝国主義の本質をハッキリさせるためには、特別の、計画的な、それになかなか専門的な努力がいるんだ——そいつを分からせることが必要なわけだ••••••p.152

引用終わり

本質を理解し、自分を見つめ直し自分で考えなければ持続する思想など持ち得ないと、こういう活動を達成させることは、果てしなく遠いことのように感じられた。

佐々木の望みを、受け身で全て飲み込もうとする笠原と、運動の為なら人をも利用する伊藤、この二人の女性は対照的だった。

笠原が佐々木に無条件に答えるのは、思想的なことよりも佐々木を好いている姿であり、ごく普通の女性であると感じたが、党の活動から見れば、「感情が浅い」などと見えるかもしれないが、彼女が求めているものは男性として佐々木を見ている普通の女性の目であったと思う。

彼女が党の活動の為に利用されているという感じは否めない。佐々木の「犠牲」の押し付けのようで、この活動には参加するタイプではない。普通の女性である笠原なのだと感じた。

この赤裸々な笠原への要求は、政党活動とは別に作者が自省的に書いた文章だったのだろうか。
もしそうであれば、後編が描かれる前に命を落とす結果となり、大変残念な思いである。

党側、同志側から見れば有能な伊藤であるが、もし彼女のような存在が体制側にいたら、もっと怖い人間になっていたのではないかと、潔さ、打算的、極めて世俗的な彼女の処世術がやや怖かった。

しかし、男と女の立場になると、笠原も伊藤も正座してしまうごく自然な純朴な女性らしさを持つ二人の共通点が印象的だった。

あざだらけの身体を見て、娘の立場に立つ伊藤の母。

死んだということがわかれば、佐々木が自家へ帰って来て捕まるかもしれないと、死を知らせないという覚悟を決めた母。

拷問の末に亡くなった小林多喜二を家に連れ帰り、頭を大切に抱えた母の姿を動画で見た。
獄中に手紙を書くために、字を練習した小林多喜二の母は後に共産党員になったそうだ。

佐々木の母は、多喜二の母である。
思想を貫いた息子をどのような気持ちで見つめていたのだろうか。
親孝行か親不孝か。

1930年代の「共産党員」のあからさまな実態を知り、想像以上に驚かされ考えさせられた。

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