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「魔の山」 (上巻) 第五章   トーマス・マン  感想文

従兄弟の見舞いで終わるはずが、ハンス・カルトルプ自身にも、肺に浸潤を見つけられ、療養の身となる。

寝かせられていた日々、セテムブリーニとの対話の内に、故国ドイツを遠くから見つめ批判するような非日常、サナトリウムの完璧な療養システムに埋没して行く。

ここに登って来た人は、「人生から離脱する」、そしていちゃつくことと体温のことしか頭になく、「残忍」、残薄と考えるようになる、とセテム・ブリーニはハンスが既にここからいなくなることを想像していたのだ。ハンスの幼い頃からの立場をよく理解しながら。

セテムブリーニの意に反して、ハンス・カストルプは、ロシア人でアジア的な自由で放縦なクラウディア・ショーシャに陶酔して行く。

セテムブリーニの論述を讃えながらも、それらを取捨選択し、ショーシャに関することに反対する彼を軽蔑さえしている。このハンスの心のくいちがいが、単純といわれる所以だと思われた。ショーシャに逢いたくここに居たいがために、水銀の目盛まで上がれば良いと思うまで心がちぐはぐになっていた。

引用はじめ

「むしろ恋情のなかでもずいぶん冒険的で放浪児的な変種であり、熱病患者の容態や高原の十月と同じように悪寒と熱気とが入り混じりあっている状態であった。そして、この両極端を結びあわせる情緒的な中間の媒介物、これがかけているのであった。——中略——
それに彼の恋情はこういう精神状態がどういう場所、どういう環境でもともなう苦痛をのこらず彼に味わわせ、喜びも残らず与えたのであった。苦悩はえぐるような痛みをあたえすべての苦悩の例にもれず屈辱的なものを持ち、神経系統の烈しい震駭を意味し、そのために呼吸が苦しくなり、大の男がにがい涙をぽろぽろ流すほどであった。喜びについても一言するとこれも数が多くめだたない動機から芽生えはしたが、苦悩に負けずに魂を震撼させた。ベルクホーフの一日はほとんど1秒ごとにそういう喜びをひめていた」岩波文庫 p.397.398

引用おわり

何人も死んだかもしれない清潔なベッドに眠り、尊厳ももたれない「死」が繰り返され、知る術もない事実が起こっていることを想像するだけの、喧騒のベルク・ホーフ。
禁断の愛が起きてしまうのも、皆の病状を知りつつ見てみないふりをするのも、自らの行方を知り黙り込むのも、病と共に毎日の苦しみを無意識に受け流す愚かさを持たなければ、人は生きられないのだという切実なものを感じた。
官能的な欲望に、今ハンスは浸っている。

「生命は物質ではないが、しかし快感と嫌悪を感じさせるまでに官能的で、自分自身を感知するまでに敏感になった物質の恥知らずの姿であって、存在のみだらな形現であった」p.474

「探究」という節の中の「生命とは」というとても難解な文章の中で、何だかモヤモヤした箇所だった。

上巻を読み終えたという喜びと作品の難しさと、読んでいく過程でのそれぞれの細かい感動とで胸がいっぱいになってしまい、感想文をどこから書いて良いものか、おまけのようになってしまった。


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