お尻はまるまる。

村にひとつしかない小さな本屋は、ガラス張りの戸がついていた。
日が差し込むためか、いつも店内は埃っぽく見えたが、それがキラキラと輝いていて、私は大好きだった。
平たく並べられた新刊やらマンガやらを目の前にすると、お腹の中でぽこぽことお湯が沸いてくるみたいに、わくわくした。

今、札幌の本屋は大きな店舗しか残っていない。(古本屋を覗けばの話)
田舎の本屋にあった、隠された秘密の場所、といった雰囲気はあまりない。
大きな本屋は市中心部か、郊外か、どちらかに残るのみ、となっている。
トド夫と付き合うようになってから、頻繁に札幌に来るのだが、本屋に来たのは初めてだ。
本来なら大好きな本屋なので、こんな新刊がでたんだ、とか、これ面白そうだな、とか、物色でうきうきしているはずなのだが、今回は浮かれた気分ではいられなかった。

私たちは合同会社を設立するため、そのハウツー本を探しださなければならないのだ。

だがしかし。
久しぶりにこんなでかい本屋に来た私は、なんせ探し方がよくわからない。広すぎだ。本棚もありすぎだ。ここは遊園地なのか。
ぐったり気味の私をよそに、トド夫は慣れた風で、こっちじゃないか、あっちじゃないかと探し回っている。太っているのによく動く。えらいもんだ。

検索機械を操作して、アタリをつけた棚を上から順番に見ていく。これかなと思って手に取ってみるが、老眼の始まった私も、既に老眼のトド夫もメガネを外しながら見ていくため、時間がかかる。
「もう店員さんに相談しようよ」
音をあげた私に、トド夫は「これいんじゃない?」と一冊の本を差し出した。

字が大きく、カラーの本だった。しょぼくれた目を一生懸命開きながら、ぱらぱらと頁をめくった。老眼の私たちでも読みやすそうである。
「これにするか」

かくして、私たちは「合同会社」を設立するための一歩を踏み出したのであった。

もともとトド夫は、個人事業主として建築事務所を立ち上げていた。
一級建築士を持っているトド夫の稼ぎはなかなかのものだ。本人は謙遜しているが、介護士の私からみると羨ましいことこの上ない。
道内各地を移動しながらノートパソコンとスマホで仕事をしているので、かっこいいなあといつも思う。

そこへ、調理師免許を持っているトド夫の娘さんから、キッチンカーをやろうかと思う、という話がでた。
(トド夫は奥さんを亡くしていて、子供がいる)
そうなると、開業資金も必要だし、キッチンカーやら備品やらも買わねばならない。娘さんにはそこまでの貯蓄はなかったので、トド夫の助けが必要だった。

お互いに個人事業主でお金を貸し借りするより、いっそのこと会社をたちあげてしまおう、ということになった。

ネットで調べ、税理士さんに相談した結果、合同会社が有利だろうという結論になった。
株式会社より簡単に作れるし、資金が少なくてもできる。
トド夫はGoogleもAmazonもそうなんだよ!とわけもわからないのに得意げであった。

もうトド夫と付き合い始めて2年ぐらいになる。
私は北海道の音威子府村というところで介護士とケアマネを兼務し、働いている。
田舎なせいか、仕事は大変ではないが、日中帯はそれなりに忙しい。

「とよ子ちゃんは経理ね」
札幌のよくあるチェーン店の焼き鳥屋のカウンター席で、トド夫はこちらを見てにっこり笑った。
「え?聞いてないよ?」
ダチョウ倶楽部よりも、かなり本気で問い返したが、トド夫は当然でしょうという顔をしている。
巻き込むつもり満々だ。
会社にしようと思う、とトド夫が言い出したとき、手伝おうとは思っていたが、そんなにガッツリ介入するとは思っていなかった。
「なに?他人事かい?他人事なのかい?」
トド夫は、こちらがまるで非人情であるかのように圧をかけてくる。
「はいはい。わかりました。経理ね。勉強しますよ」
私は返事をしながら、まあいいか、とやきとりを頬張った。
歳をとると何かを始めることが億劫になったり、先に拒否反応がでてしまうから、こうやって半強制的にでも、新しいことをやるというのはいいことだと思った。

ただ、こうやって生活はトド夫の勢いに巻き込まれているのに、結婚はまだ先の話になっていることがひっかかる。それはスモークサーモンみたいに燻されて心臓の端っこにぶら下がり、何かのおりに、このままでいいのかな、と思い出された。
結婚に焦っているわけではない。焦る年齢でもない。
でも、一度は結婚してみたい。
だから、いつになるやら気を揉んでいる。
揉んだら漬物みたいに美味しくなるもんかな、と皿に残ったやきとりの串を眺めるぐらいしか、今の私にできることはなかったりする。
トド夫に聞きたかったが、楽しくお酒を飲んでいるのに、それもないよな、とぷるぷると犬のように首を振った。

ひとりで何かをやろうとすると、よく途中で挫折してしまうのだけど、数人で何かをなそうとすると、相手を励ましたり、こうだったよああだったよと報告したり、これはどうしようと相談したりするから、続くのだなと、トド夫とダックを組んでから思った。

今までひとりだった私は、仕事もプライベートも自分で決めなくてはいけない気がしていたし、頼るということもあまりしてこなかった。頼るところには金銭が発生するか、打算があると思えた。
そうやって用心深くなったとしても、たくさん失敗はするし、他人に騙されたりもする。
「まあ仕方ない。自分で決めたんだから」
そう言い聞かせて、やってきたのだが。

トド夫と一緒に会社をつくろうという話が持ち上がったとき、失敗だらけの過去のなかでも最悪な出来事がぐっと喉元に上がってきた。
私はかつて男に騙され、何十万も支払ったことがある。しかも二股にかけられていた。心底最低な男だった。いっそ車にでも轢かれて欲しい。
もう記憶から抹殺したいので詳しく書きたくない。
なのに過去が蘇ってしまうのは、二度と騙されてはいけないぞ、ちゃんと疑ってかかれよ、という私の脳みそからの防衛指令なんだろうか。

気ごころの知れたトド夫であっても、何があるかはわからない。
疑う気持ちは残しておかねばならないような気が突然してきたのは、夕食後にお酒を飲んでいた時だった。
きりっとトド夫に目をやると、こちらにでかい尻を向けて、床に置いてあるこぶとんの上でゴロゴロしていた。
テレビから流れる音楽に合わせて足を小刻みに動かしている。
岩の上のトドが足びれを動かすさまとそっくりだった。

トドか、おまえはトドなのか。私の家でリラックスしすぎじゃないのか。

勝手につけているあだ名なので、本人は知らないのだが、どストレートだったなと我ながら自負している。
ああ、まるまるとしたでかい尻であることよ。
私のキリキリした脳みそは、防衛指令をぱたと止め、まるまる尻に平和を感じてしまうのだった。

「つまらないことでも、なんでも話して」
トド夫はよく言う。
新しい情報か、面白い話以外はあまり意味がないと思っている私は、トド夫にそう言われてもうまく話すことができない。
なんでも話していいんだよなあ、と私はまるまる尻に向かって言った。
「トド夫は私を騙すのかい?」
冗談ぽく言ったつもりだが、
トド夫は突如起き上がり、ぎゅんと眉をつりあげ、大声を出した。
「こんなに全部渡してるのに疑うの?」
経理を任された私は、トド夫の懐事情をほぼ把握していた。
でも、確認せずにいられない乙女心というか老婆心をわかってほしい。
「冗談だよ冗談」
ぷーと膨れてまた横になったトド夫の、まるまる尻が、ぷいとそっぽを向いた。

経理なんてやったことがないのだが、とりあえずまた札幌の本屋で経理の本を買い、読み込みながら、ネットのクラウドのソフトを購入した。
ネットのソフトにしたのは、初心者向けに動画説明があったり、わかりやすいとの評判を目にしたからだ。

Googleで、勘定科目がなんだとか、これは消耗品費でいいのかとか、検索しながら進めていく。
「税理士さんもいるしね!」
元個人事業主のトド夫は、「私は経理のことはわかっているから私に聞け」と言ってくれるのだが、私は介護の仕事の合間にしかできないので、ちょうどその時にトド夫が返事をくれるとは限らない。お互い仕事をしているので、時間がなかなか合わないのだ。
トド夫の返事をイライラしながら待つより、検索する方が早いわ、と思って、経理ソフトと格闘しながらも、なんとか進めていった。

はじめてみると、数字合わせみたいで面白い。
「あ、合った」
画面の数字を見ながら、銀行の通帳と合わせていると、それに集中して無心になれるところがある。
「意外と経理が好きかもしれん」
トド夫にそう言うと、トド夫は
「私の見込みが当たったね」と満足げだった。

新しく始めたキッチンカーは、トド夫の娘さんの努力もあって、すぐに軌道にのった。半年くらいは、元がとれないだろうと見込んでいた私は、自分の見込みが外れたのが、嬉しかった。
トド夫は「まだまだ、これからだよ」と言いながらも、顔がほころんでいた。
軌道にのるまで、準備や資金繰りが大変だったが、トド夫と私で、なんとか乗り越えた。
結局、過去のバカ男に騙された額よりも上回る額を投資することになっていたが、何年間かで回収できそうだという見込みも立っている。
経理をやると経営の全体像がわかってきて、なかなか面白いものだった。

いつからから札幌と音威子府のニ拠点生活のようになり、それに慣れたと思ったら、副業のように経理をやっている。次々と新しいことに手をつけ始めた私は、もう50歳近い。
朝目覚めれば手足はこわばってるし、スマホをうまく使えなくなるくらいに老眼は進むし、スクワットをすればすぐに疲れる

若い頃は、50歳なんて、おばあちゃんだ、と思っていた。想像もつかなかったし、実感もなかった。

いまは、それを目前にして、ちょっとだけわくわくしている。
時間がもったいないと思うようになったし、空いている時間に何かしよう、という思考回路になった。アプリで簡単な英語の勉強も始めた。今のところ続いている。若いころに好きだった本もまた読み始めた。職場に利用者さんむけの本棚があるので、そこから適当にピックアップしている。ケアマネの研修も受けている最中だし、ダイエットをするために、記録アプリもつけている。TikTokはほどほどにしなさいと言われるが止められない。

小さなことを、できることを、ちょっとずつ始めている。そんな大仰なチャレンジではないけれど、トド夫と会って、少しずつ私の毎日と、私の周りが変わり始めた。

今までの私が悲観的すぎ、臆病者だっただけなのか。複雑だと思えた世の中は、もっと単純なものだったのだろうか。

今日もトド夫は、まるまる尻を揺らして踊っている。これからも、素敵な日々が待っていると祈りたい気分だ。











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