9/23(土)日記

中学生・高校生と演劇部に入っていた。演劇部がある学校は少ないのか、バイト先や友達に部活のことを話すといつも少し驚かれる。

中学1年生の頃は美術部に入っていて、2年生のときに演劇部に転部した。いじめがあったわけでも、美術がいやなわけでもなかった。部内のヒエラルキーでは高い位置にいたし、何人かとは今でも付き合いがある。

きっと、ただなんとなく日常に変化が欲しかったのだろう。だから、少し苦手なだけの知り合いを大げさに嫌ったり、かかわりの少ない先輩の悪いところをわざと探したり、そういう、とりあえず身の回りを変える為にどうでもいい不満を作って、自分で自分にストレスを与えて、結果、美術部をやめて演劇部に転がり込んだ。

芝居をやって良かったとは思う。プレゼンテーションや電話応対をほめられるのは、きっと芝居の経験からきている。けれど部活のことを思い出すたびに、わたしはもっとこうすれば、といつもおもう。それは後悔というよりももっと漠然としていて、自分を責める気持ちが多くて、でも昔のことだから、と郷愁めいたせつなさだけが確かだ。

きっとその感情は、「やりたかった役をやらなかった」「やりたかった脚本をやらなかった」の2つからきているのだと思う。いつ何時だって私は後輩に自分のやりたい役を譲り、同級生がやりたい脚本を選んだ。やりたい人がやったほうがいいだろうから、と、そのときの私は思っていた。それは一見聞こえがいいことだけれど、反対に考えれば自分を役に寄せる努力をしてこなかった、部員に自分の好きな脚本の魅力を伝えることを怠っていたということになる。

芝居は1日1日完成を目指して変化していく。昨日までの動きが演出上無くなったり、変化したり、台詞が脚色されてたり、本当にころころ変わる。だから毎日部活に出ていないと、変化に追いついていけない。それはバイトをしていた私にとってはどうしようもないことで、いつもなんとなしの疎外感を感じていた。

演劇部や演劇サークルは、「気軽に」「兼部OK」を掲げているところが多いと思う。けれどその実、毎日練習に出られる人とそうでない人のあいだで、決定的な溝ができているんじゃないのか。

ここまでつらつら考えて、愚痴や後悔めいたものばかりでてくるので、じゃあ演劇部が嫌いだったのかと言われると、そうではない。高校のとき主役をもらえたのはうれしかったし、監督としてお芝居を作るのもすきだった。音響の編集も楽しかった。でも、そういうのって結局、目立てた時っていうのに限定されてしまうのだとおもう。自己顕示欲が満たされなかったから、芝居に対する後悔が多いなんて、浅ましいなぁと思うけれど、これが私なのだから仕方ない気もする。

でも、いちどだけ、好きな脚本で、やりたい役で、お芝居をしてみたかったな。もっとわがままを言ったらよかったのに。昔の私は、卑屈に良い子だった。


おしまい










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