レール

ここでいうレールは人生のレールというものである。

私たちの時代は、それこそ「人生のレール」があたりまえのように語られ、人生のレールは、そのレールの上を走らないことが落伍であり、みながそのレールの上を走ることを目指した。もちろん、なかには、例外的にあえて、そのレールの上を走らないこと決めたり、レールを走ることに疑問を持ち続けた人もいる。それはいつの時代でもの例外であり、
なにかはわからないが、みながレールとよぶものがあり、そのレールの上を走ることをめざした。

ふりかえってみると、みなでレールをつくりだそうとしていた時代だったのかもしれない。成功という高揚感のある目標を設定してそのレールをつくりだそうとしていた。

時代がかわり、レールが存在しなくなる社会になったと感じる。それは積極的な意味で、生き方が主体的に多様になったというよりは、日本社会の象徴と言われた会社の終身雇用制がつぶれ、年功序列が徐々にくずされてしまった社会になり、レールをつくりたくても、レールの先は見えないであったり、レールじたいがとても短かったりするようになった。そんなことを感じていた。

しかし、社会はもっともっと、萎縮していて、残された一本の道(レール)以外に道がなくなってきているのかもしれないと日々のなかではおもうことが増えた。そのレールをはずれてしまうと、生活困窮、生きていくのが精一杯という荒野がひろがってしまうのだろうという感覚である。

生き方や仕事を主体的に選ぶことができる階層が決まってきていて、それ以外の階層はレールにみえるが、実はレールですらなく、道すら見えなくなりつつあるのかもしれない。

悲観的な語りになってしまったが、1980年代のレールとはもう違っているレールをどう語り、どう評価すればいいのだろうか。



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