朝、ベッドの上で

朝、目が覚めると豆腐になっていた。グレゴール・ザムザがベッドの上で大きな虫になっていたように、僕は豆腐になっていた。豆腐だ。

夢か、まだ眠りが覚めていないんだな、明晰夢というやつだ。そう思って僕は夢を夢として楽しむべく豆腐である自分の体をまじまじと眺めた。白くつやつやと妖しく光る絹ごし豆腐だ。柔らかくしなやかで、それでいて冷たい直線に囲われた直方体。カーテンから洩れる朝の光に照らされて穏やかに輝いている。まるで4月の波の無い海みたいだ、と僕は思った。それはある種の造形物、しかも食物としてはかなり完成形に近い美しさだった。僕はうっとりした。素晴らしい。

しかしそれにしてもこのしっとりと湿った感じは夢にしてはあまりにも実感的に過ぎる。水分がシーツにじんわりと染み広がる。現実と夢とがリンクしているのであれば、あるいはいい年をして小便を漏らしてしまったのかもしれない。まあ確かに昨晩は飲みすぎた。アラン・シリトーが「土曜の夜と日曜の朝」で書いたように、明日のことを考えずに祭りのように飲んだ。妻にはバツが悪いが仕方ない。明晰夢だとしてコントロール出来るようなものであれば早々に夢から覚めて下着の処理でもした方が賢明だ。

僕は手(かつて手であった、現時点における豆腐の角)で顔(かつて顔であった、現時点における豆腐の上面)をつねってみた。痛くない、はは、やっぱり夢じゃないか。そう思った途端、角で上面をつねるという豆腐としては無理のある体勢が悪かったのか、角がぽろりと崩れた。いとも簡単に崩れ落ちた。なるほど絹ごし豆腐だ。ともかく脆い。

いやなるほど等と言っている場合ではない。痛みは無かったが確かに体の一部が離れる感覚はあった。爪を切るとか髪の毛を切るとか、そういう感覚。その感覚に気がついた瞬間、何やら僕は背中が寒くなった。僕はまさか、本当に豆腐になっているのではないか。そして仮にこれが夢でなかったとしたら、早くも僕はかつて片手であったそれを失ったことになる。

どうしてこんなことになったのか。大豆を水に浸し、臼ですり潰しおからと分けて豆乳にし、苦汁を加えて凝固させ…という製造工程を経た覚えは無いし、昨晩床に就いた時点ではまがりなりにも人間だったはずで、記憶が正しければ大豆ではなかった。妻と一人娘を持った三十過ぎたホモサピエンスのオスだったはずだ。いやそもそもそんな過程のことはどうでも良い。混乱している。何が重要なのか分からなくなっている。重要なのはどのように豆腐になったのかではなく、仮に本当に今自分が豆腐になっているとしてこれからどうすれば良いのか、どうすれば元の人間の姿に戻れるのかだ。

焦りが水分として染み出す。人間であればこれを汗と認識するのだろうが、今豆腐となっている自分から出てくるこれは何だ。時間を置いた冷奴から出てくる例の水分ではないか。水切りをしなければ、いや、そんなことはどうでもいい、いや、いや…。

考えがまとまらないでいると、寝室のドアが開く。妻だ。

「こんな所に豆腐…」

妻は怪訝な顔をしながら豆腐(すなわち僕)をそっと拾い上げる。助けて、助けて、助けて、そう叫ぼうとするが、豆腐には発声器は無い。ぷるりと少し揺れたに過ぎない。

もちろんベッドの上にパック詰めもされていないそのままの豆腐が置かれていたとしたら、昨晩酔っ払って帰ってきた僕の理解不可能な行動として処理されるだろう。締めに冷奴でも食べて寝ようとしたのかもしれない。僕だってそう思う。そしてそれは正真正銘生ゴミ以外の何者でもない。その通りだ。妻よ、今君が生ゴミ用のゴミ箱に捨てようとしているその豆腐は、そう、確かにそこに捨てられるべきものだ。100パーセント君が正しい。しかし僕だ。今君の手の中にあるその豆腐は、君の夫だ。まさに君の手を離れようとしている、この白く四角い絹ごし豆腐は、豆腐であって豆腐でないのだ。これは命乞いだ。待って、待って、ねえ、ちょっと待っ



ぐちゃ。

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