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たはむれに葱を背負いてそのあまり軽きに泣きて三丁揚げ出す

僕が豆腐に出会ったのは雨の降らない梅雨の、その年の梅雨にしては寧ろ珍しいくらいに強い雨が降った月曜日の朝だった。雨の月曜日。それだけで憂鬱な響きだ。しかしまあ今になって考えてみれば雨と言うのは豆腐にとっては良かったのだろうと思う。水分は豆腐にとって生命そのものに限りなく近い。

住宅街を抜けて駅前へ抜ける公園のベンチの上に豆腐はいた。きちんとステンレスのボウルに入れられて。ボウルは強い雨の中で水が溢れていて、半丁くらいの小さな豆腐であれば流れ出してしまいそうだった。豆腐はぴくりとも動かなかった。静止していた。そこだけ時間が止まっているようだった。

よく見ると、豆腐の入っているステンレスのボウルには雨に濡れて皺くちゃになったカードが添えられていた。が、それも判読できるようなものではなかった。雨が全ての文字を洗い流し、ただそれがかつて何らかの文字が書かれていたであろうカードであったということしかそれは示していなかった。

「捨て豆腐だ」と僕は思った。何もこんな人手の少ない雨の日に捨てなくたっていい。雨の中、無言でボウルの底に沈んでいる豆腐が憐れに思えた。と同時に、不意に豆腐が僕を見上げた気がした。多分気のせいなんだろう。でもそう思ってしまうともう駄目だった。

公園の外灯がステンレスのボウルに反射しててらてらと光る。まるで豆腐の誘いだった。家に来るか?と僕は豆腐に言う。いや、しかし、と少し逡巡する。僕はわざわざ豆腐を拾うためにこんな雨の中外に出てきたのではない。

これは正直に白状するが、捨て豆腐を拾うのは初めてではない。あの濡れた目(というのか何というのかは分からない)でじっと見られると、いたたまれなくなってしまう。寄る辺無さを煮詰めて残った塊のようで、あるいは荒れた海を行く手漕ぎボートのようで。

捨て豆腐を拾ったところで家は小さなワンルームの賃貸マンションで、豆腐を飼うことなんて出来ないから結局食べることになる。それがこの豆腐にとって良いことなのか悪いことなのかは分からない。物言わぬ豆腐の気持ちはその海獣のようにぬらりと光る表面を見て推し量るしかない訳だ。

結論を言ってしまえば、僕はその雨の強い月曜日、豆腐を連れて家に帰った。その時点ではもう出かけた目的も忘れていた。豆腐を連れ、小さな部屋の安っぽい鉄製のドアを開けると、鰹節と生姜と醤油を出してそのまま豆腐を貪った。憐憫と欲情の境界で、しかしそのどちらにも足を掛けながら。

今の僕には雨の中で途方に暮れる豆腐を見捨てることも助けることも出来ない。他に選択肢が無いのだ。仕方がない。僕はそう自分に言い聞かせながら、その白く妖しい光を放つ直方体を胃の中に収めた。

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