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大豆行路

豆腐は、豆として生まれた。豆と言ってもえんどう豆でもレンズ豆でもなく、まるまるとした大豆である。大豆。即物的と取れば味気ないかも知れないが、しかしそれは最高にシンプルで機能美に溢れた名称ではないかと、豆腐――その頃はまだ豆腐ではなく大豆であったが――は考えていた。

生まれた地は、北のだだっぴろい平野の、だだっぴろい大豆畑であった。幼少の頃から、自分は豆腐になるのだと、それは信仰に近いような一種の何か確信めいたものを持っていた。豆腐以外の使われ方は、決して自分はしないだろうと。醤油でも納豆でも黄粉でも味噌でもない。まして枝豆でもない。豆腐。

その確信はそして、現実のものとなった。収穫され乾燥せられ、出荷された先は、ある商店街の豆腐屋だった。平野から出た事の無かった豆腐にとっては、一連の行程は無限に向かって進むような気の遠くなるような旅のように感じた。しかもそれは多数の同志たちと、暗い袋に閉じ込められての旅路である。

暗闇というのは方向感覚を無くす。それは大豆にとっても同じだった。自分たちがその北の平野からどこへ向かって進んでいるのか、大豆たちには見当もつかなかった。寒い北の大地を出てきたのだから、或いは南へ向かっているのかも知れない。しかし冷暗所に詰められての移動。その感覚も失われていた。

到着したその豆腐屋には、頑固を絵にかいたような親父がいた。親父は毎朝、朝とも言えぬ深夜から作業を始めていた。見ると、この上なく丁寧な仕事をする。大豆は高揚した。この親父なら自分を旨い豆腐にしてくれるに違いない。幼少の頃からの確信が、この親父の出現によって裏打ちされるのを感じた。

先に到着していた大豆の諸先輩が、順に加工されていく。しかし、その姿は大豆をひどく混乱させた。ここまで来て、と大豆は声に出して立ち止まった。豆腐屋へ来たのだ。豆腐になるしかない。そう思っていたのだ。しかしどうだ。先んじて加工されていく大豆諸先輩の姿は。

湯葉に、厚揚げに、薄上げに。中には豆乳のままその身を固めることなく売られていく者もいた。その事実に気づいた時、豆腐は戦慄した。進むべき道を進んできたし、辿り着いた場所だって辿り着くべくして辿り着いた。目的を明確にし、それに向って邁進してきた。はずだった。

それでも尚、ここまで来て更なる枝分かれを迫られるのか。しかもここからは自助ではどうにもならない。親父がどの商品の仕込みをどのタイミングでするのか、その時、自分は大豆の山のどこにいるのか。不確定要素が多すぎた。後は祈るしか出来なかった。

大豆は毎日、毎時祈り続けた。どうか、親父が豆腐を作る時、その大豆の山のてっぺんにいますように。そのひと掬いの中に、自分が存在しますように。大豆にはそれしか出来なかった。無力感と寄る辺なさ。これまで自分を支えてきた確信が、思い込みでしかなかったのではないのかと、弱音だって吐いた。

その時は唐突にやってきた。親父がざっと音を立てて自分のいる山を掬う。そしてグラインダーに投げ入れられる。賽は投げられた、そんな誰かの言葉を思い出す。それから、ソイは投げられた、と不意に思いついてふふっと笑った。大して面白い冗談でも無かったが、そうでもしなければ耐えられなかった。

ほどなくして――そのように省略しなければ、その大いなる苦痛は表現の仕様が無いのだが――大豆たちは一塊になって豆乳となった。ここからだった。ここからどうなるか、ひとつひとつ枝分かれし、決定されていく。親父の一挙手一投足を観察しながら、自らに敷かれたレールを慮った。

親父が苦汁を手にした時、豆乳の全身に歓喜の波がうねった。親父からも見えたに違いない。風もない室内で、地震でもないのに豆乳が波打っていた。固まる、固まれるぞと、元々多数であった大豆たちの集合思念のように、豆乳の中で歓喜がこだましていた。

固められ、そして絞られた。木綿豆腐だ。ここから揚げられる様子もなく、ステンレスの水槽の中にそっと沈められた。夢のようだった。物心ついた頃からの確信が、現実のものとなった。ここまで枝分かれしてきた同志の姿を思うと、それは寧ろ奇跡的なことではないかと、今になって身震いがした。

夜が明けた。豆腐としての初めての朝だ。全てを赦すことができる、そんな心持だった。ここまで、豆腐というたった一つの可能性に向けて進んできた。もういい。これからは、どんな料理にだってなろう。全てに身を委ねよう。そう思った。そうして朝の光の差し込む水の底から、客の来るのを待った。

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