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心配の後に来る感情は安心だけじゃない。

みなさんお疲れ様です!
約一年ぶりくらいに10対0で自分が悪いことをして親にこっぴどく叱られた東です。
(堂々と言うことでもない)

今日は戒めとして何をしてしまったのか、そしてそこから何に気づいたかということについて書いていこうと思います。。

それではどうぞ!

無断外泊

単刀直入に言うと、この一言だ。


僕は実家に住んでいるため、基本的にどこかへ出かけた際には帰るか否かの連絡をするようにしている。


ただ先日は帰るか否か分からないまま夜中グダグダしているうちに寝てしまったのだ。


そしてかけてもないアラームの音で目が覚めたかと思うと、母親からの電話でこっぴどく叱られた。そして帰宅後父親からも同じように叱られた。

見ての通り、明らかに僕が悪い。

ただここまで叱られたのは久しぶりだったから、なぜそこまで怒るのかと考えてみることにした。(自己分析ダイスキマン登場)

相手の気持ちを考える

仮に自分が親だとして、深夜目覚めると子供が家にいない。そして携帯を確認しても連絡はないし、連絡をしてみても返信がない。

この時の親の気持ちを想像することは誰でもできるだろうが、間違いなく”心配”なのだ。

おそらくここまでは考えなくともなんとなくわかっていたはずだから、その先についても考えてみた。

具体的には連絡がなく、心配だったが、連絡がついて安否が分かった瞬間だ。

このとき心配していた不安が取り除かれるわけだから、普通に考えると不安の対義語である安心が現れるだろう。しかしありありと考えてみると、安心だけではなく、怒りの感情が現れることに気が付くのではなかろうか。

このメカニズムについて自分なりに考えてみた。

心配と怒りの関係性

まずそもそも心配する条件を考えたときに、自分にとって相手が大切な存在であるかということがあるだろう。この大切度合いが大きければ大きいほど人はその人のことを心配する。

すると最悪の場合を考えることはもちろん、何かしらのコンタクトが取れるまでそのことを考え続けることになるため、その間心配メーターが高まり続ける。(心配メーターなる日本語はきっとないので、なんとなく察してください・・・)

そして何かしらの連絡などによって安心する=心配メーターがゼロになるわけだが、おそらくこの際にあまりにメーターが高まっているとその落差が埋まりきらず怒りとして放出されているのではなかろうか。

もちろん怒りとはいっても、愛の鞭に近い。相手を心配しているからこそ、ついつい言い方がきつくなってしまいがちだが、その裏側には必ず相手の為という気持ちが込められているわけだ。

今と昔

小さなころはそのことが分からなかったから、単純に言葉だけを切り取って怒られたという事実をみていた。

ただ今それを分かったうえで怒られると、本当に申し訳ないことをしたなと反省することができた。

もちろん怒られないに越したことはないのだけど、もしそうなってしまったときには相手の真のメッセージを正しく受け取ることが大切だと身をもって実感した。

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