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第十二話 差し伸べられた手

「……、…………!?」

鋭く放たれた異国の言葉。
それが何を意味するのか、私にはわからない。
けれど、対峙している様子から好ましいものとは思えなかった。

「アリョーシャだと?」
「! 鷹司さん、ロシア語がわかるんですか!?」
「ある程度ならな。それよりお前、アリョーシャって知り合いは」
「外国の方に知り合いは……」
「まあ、そうだろうな」

こちらが何も言い返さずにいると、男は苛立ったようにまた同じ言葉を繰り返す。
鷹司さんはいかにも不快そうに顔を歪め、何かを早口で言い返していたが、私には何を言っているのかわからなかった。

「うるさい奴だ……。おい、本当に知らないんだな?」

ちらり、と頭だけ後ろ向かせて聞かれ、大きく頭を横に振る。確認を取ると、また二人の間で何か会話がなされたようだった。

「……駄目だな、話にならない。九条家の人間は何をやっている?」

屋敷の中からはまだ騒然とした声が聞こえていた。
おそらくまだ、来賓たちの避難が終わっていないのだろう。
誰にも、何も起こっていないといい。
けれど屋敷を振り仰いだ視線は、「下がれ!」という叫びで引き戻された。

「ッ──!」
「鷹司さん……!!」
「いいから下がれ! 後ろには誰もいないな!? あの木の後ろにでも隠れてろ!」
「でも!」
「傍にいられた方が邪魔なんだよ!」
「っ……」

早くと強く肩を押され、数歩よろめく。
目が、濡れていく鷹司さんの二の腕から離せない。
引き裂かれた布地の間から見えた白いシャツ。それは、赤く染まっていた。

「ぼうっとしてるな!」
「!」

ナイフを手に再び男が鷹司さんに襲いかかる。
鷹司さんは腕を庇いながらそれを避けると、避けた動きを利用して相手の腕を掴み、地面へと転がした。
地面に落とされた衝撃で男の手からナイフが離れ、私の足元へと弾き飛ばされる。手を伸ばせば届く距離に。
今なら、武器を奪える。
そう思ったのは私だけではないらしく、男も同時に自らの武器を取り返そうと手を伸ばした。

「何をやってる! この馬鹿が!」

私の手首を掴みかけていた男の手を、鷹司さんが容赦なく上から踏みつける。私はその隙にナイフを拾い、全力で木のある場所まで走った。
心臓は壊れてしまいそうなほど激しく脈打ち、耳は詰まってしまったように音が反響している。

「人を……! 助けを呼んできます!」
「はっ!? お前ほんっとに馬鹿か!」

男と取っ組み合いになっているせいで、鷹司さんの声は途切れ途切れだった。それでも、明らかに怒っていることはわかる。

「あんな混乱した屋敷に戻ってみろ! こいつの仲間がそこにいたら、俺の苦労が台無しだろうが!」
「す、すみませんっ!」
「っ……いいから、目の届く場所にいろ! ……ナイフ奪っただけでも上出来だ」

聞き間違いかと思うほど小さな声で言われ、一拍おいてから意味を理解する。この人は素直になれないだけで、本当は優しい人なのかもしれない。
けれど、今は悠長に胸をあたためているような場合ではなかった。
男は異様に体力があるのか、何度鷹司さんに地面へ倒されようとすぐに起き上がってくる。
対して、鷹司さんは肩で息をし始めていた。怪我のせいか、顔色も悪い。

「どうしよう……っ、なんとかしなきゃ!」

私のせいで、これ以上鷹司さんを危険な目に遭わせるわけにはいかない。
けれど、私が加勢したところで足手まといどころか、捕まってしまう可能性の方が高かった。それでは、せっかく助けてくれた鷹司さんに申し訳なさすぎる。
焦れば焦るほど、良い案は浮かんでこない。手の中にはナイフがあるのに、人にこれをふるう勇気も、怪我をさせずにナイフを扱って鷹司さんを助けられるような技量もない。

「くそっ……諦めの悪い!」

鷹司さんが低く吐き捨て、男の脇腹に足を繰り出した。
男はわずかによろめいたものの倒れず、そのまま鷹司さんの足を抱え上げる。その途端、苦しげな呻きが鷹司さんの唇から漏れた。膝が、本来決して向かない方向に曲げられようとしている。

「く……ッ」
「鷹司さん!」
「そこにいろ!」

鋭く言われ、飛び出しかけた足が竦む。
鷹司さんの額には、暑くもないのに玉のような汗が浮かんでいた。
──どうして、私は無力なのだろう。
自分の運命を自分で決められないばかりか、人様の命まで危険に晒している。
どうして、と強く手を握りしめた時、その中に固い感触があった。そうだ。まだ、私にだってやれることはある。

「やめてください!」

叫びながら木の陰から飛び出し、ナイフを自分の喉元にあてがった。

「お前、何を!?」
「どこのどなたか存じませんが、その方を離してください。これ以上危害を加えるようならば、私はここで死にます」
「!」

鷹司さんと男の目が、同時に大きく見開かれる。

「私を攫おうというくらいですから、死んでしまっては困りますよね」

男が何かを叫んだ。雰囲気から、「やめろ」と言っているのはわかる。
期待通り、焦ってもらえてよかった。これで命は関係ないのだという態度を取られてしまっては、台無しだ。
手が震えそうになるのを必死に堪え、男を強く睨む。

「さあ、その手を離してください。その方はあなたに乱暴をされる理由なんてないはずです」
「…………」
「早くしてください!」
「っ!」

ゆっくりと、でも確実に男の手が鷹司さんの足から離れていく。
それにほっとし気が緩んだ瞬間を、男は見逃さなかった。

「っ……あ!」

何かを投げられる仕草に、反射的に体が動いてしまった。
その隙に、男が鷹司さんを放り出すようにしてこちらに突進してくる。
結局、私にできることなんて何もなかった。
そんな絶望で目の前が暗くなりかけた時、

「そっちに気を取られすぎなんだよ!」

男の体が視界から外れ、代わりに鷹司さんの笑みが除く。
何が起こったのかすぐには理解できなかった。
けれど、地面に這うようにしている男と、その足に抱きつくような体勢を取っていた鷹司さんを見て頭が追いつく。
私に突進してくる男に、後ろから抱きついたのだろう。

「しばらく寝てろ」

鷹司さんの手が、男の首筋に沈んだ。それと同時に、私を獲物を見る目で睨みつけていた男の体からがくりと力が抜ける。
助かったのだ。
どっと汗が背中を流れるのを感じた。

「鷹司さん、すぐに怪我の手当を……!」

駆け寄ると、鷹司さんは男の上に腰を下ろしたまま「それ」と私の胸元を指差した。
なんのことかわからず首を傾げる。

「ナイフ。そんなもの持ったまま、駆け寄るな。刺されるかと思うだろ」
「これはっ……その、すみません」
「どうせ手がガチガチで離せないんだろ。……貸してみろ」

鷹司さんの言う通り、自分でナイフを離そうにも手が強ばってしまっていて動かなかった。その指を、鷹司さんが一本ずつ優しく解いてくれる。
見下ろす鷹司さんの髪は先の乱闘で乱れてしまっているし、スーツも破れており、威厳のようなものはすっかりどこかへ消えてしまっていた。けれど、こうしてぶつぶつ文句を言いながらも、私の心配をしてくれる鷹司さんの方が、ずっと素敵だと思う。

「……どこも怪我してないだろうな」
「はい。鷹司さんのおかげで」
「当たり前だ。九条の人間に聞かれてもそう答えろよ。これで九条家には大きな貸しができる」

に、と笑った顔はヤンチャな子供みたいで、今言ったような駆け引きを考えているようにはまるで見えなかった。

「……鷹司さんって、損な性格をしてますよね」
「は? 損なんかするわけないだろ。昔から損得勘定は得意だ」

勘定は得意でも、実際には損でも情を取ってしまう。今の鷹司さんはそんな人に見えた。
けれど、それを言ったところで本人は認めないだろう。だから、これは私の勝手な解釈だと思うことにした。

「助けてくださって、ありがとうございました」
「まあ……あれだ。賞品を奪われるのも癪だったしな」
「九条家に恩を売るためじゃなくてですか?」
「っ……うるさい。それもあるけど、色々あるんだ」

鷹司さんがそっぽを向いた隙に忍び笑う。
けれど、腕を組む姿勢を取った鷹司さんが顔をしかめたのを見て、はっとした。腕の怪我だ。

「すみません! お怪我をされていたのに……」

シャツをあれだけ赤く染めた傷だ。つばをつけておけば治るという度合いではないだろう。
慌ててドレスの裾を引きちぎろうとした手を、掴まれた。

「待て。何もドレスを切る必要はない」
「でも……」
「腕を縛るならハンカチもある。少し落ち着け」

呆れたように言いながら、鷹司さんは胸ポケットを飾っていたハンカチで器用に自分の左腕を縛る。それでもあまり力は入らないようだったので、強く縛ることだけ手伝った。
じわりと滲んだ血に涙ぐみそうになり、奥歯を食いしばる。

「それにしても、九条家の者はまだ来ないのか? お前が見当たらないことくらい気づいているだろうに」

そう言って、屋敷の方に視線をやった鷹司さんだったが、さっと立ち上がると私の腕を無言のまま掴んだ。
背中に隠されるようにして腕を引かれ、鷹司さんの背中越しに屋敷の中から黒いスーツの男性が数人歩いて来るのが見える。

「さすがにひとりということはなかったか」

なんでもないことのように言ってはいても、空気が張りつめているのがわかった。
今、私たちに向かって来ている男性は三人。
さきほど、ひとりを相手にするだけでも大変だったというのに、三人もの相手をするのは不可能に思えた。それも皆、倒れている男と同等かそれ以上に大きな体躯をしている。
男たちのひとりが、地面に伏している仲間を見て気色ばんだ。

「……三人か」

鷹司さんの呟きは低い。けれどそこに暗い響きは不思議となかった。

「千佳」
「っ……はい」

初めて、名前を呼ばれた。
驚きに目を見張っていると、鷹司さんが肩越しに振り返った。その意思の強い瞳に、視線を引き寄せられる。

「俺が売った恩、無駄にするなよ」
「え?」
「幸い、相手は正面にしかしない。ぞろぞろ来たくせに俺たちの後ろからは来ないってことは、これで全部だと思っていい。だから、お前は屋敷の裏手を通って逃げろ。足止めできるのは数分が限度だ。その間に誰でもいい。泣きついて保護してもらえ」
「っ! そんなことできません!」
「やれ! 言っただろ。俺は損することはしない主義だ」
「でも……!」
「行け!」

強く、体を押された。
一歩離れただけなのに、冬空の下に裸足で放り出されたような冷たさが身に突き刺さる。

「走れ!」

男たちに向かって走り出した鷹司さんの叫びに、足が動いた。

「っ……助けを呼んできます!!」

また、まただ。
私はまた、逃げ出した。

こうやって走って逃げて、怜ニに怪我を負わせた。
強くなりたいと思うのに自分ひとりでは何もできない。
それが、今の私だ。
すぐに変わりたいとどんなに願っても、人間はそう簡単には変われない。
だから今、私が鷹司さんのためにできることは逃げることだけだ。
逃げて、誰かを連れて来る。
それが唯一、彼を助けられる手段でもあった。
何もできないのなら、できないなりにもがくしかない。

胸の痛みを押さえつけるように胸元を握りしめたまま、走った。
背後で人が人を殴りつける音が聞こえる。倒れ込む音がする。
少しでも速くと動かした足が、がくりとよろけた。

「あっ……!」

履き慣れない靴が、足をすくう。
思い切り前のめりに転びかけた時、

「うわっ!」

誰かの胸に飛び込んでいた。
視界に入ったネクタイを見て、頭よりも先に口が動く。

「鷹司さんを助けてください!」
「えっ、ちょっと落ち着いて……って、千佳さん!? こんなところで何してるんです!」
「え?」

名前を呼ばれ、ようやく自分が抱きついている相手が高橋さんだと気づいた。

「みんなあなたを探してたんですよ! ああ、でもよかった。まさかこんなことになるなんて……」
「私のことより、鷹司さんが大変なんです!」
「大変ってどうしたんです?」
「襲われてるんです! とにかくこっちに……っ」

急いで引っ張って行こうとする私の手を、高橋さんがやんわりと押さえ込む。そのあまりの落ち着きように、私の焦りは変に強くなっていく。

「裏庭の方ですよね? それなら、今表側から鳴海さんが向かっています。他にも何人か。あっちから回った方が早いから、もう着いているはずです」
「でもっ」
「大丈夫です。それより、あなたを安全な場所に保護することの方が先決だ。あなたが捕まってしまったら、それこそ鷹司さんの身が危険ですよ」

そうだろうか。そうなのだろうか。
焦りすぎて、頭が上手く働かない。
動けずにいる私の耳に、微かではあったけれど誰かの叫び声が聞こえた。それは悲鳴のようなものではなく、力強いもののように思えた。
はっと後ろを振り返ると、高橋さんが「ほら」と言う。どうやら、私の希望が聞かせた幻聴ではなかったようだ。

「行きましょう。ここにいても足手まといになるだけです」
「せめて、大丈夫かどうかの確認をさせてください」
「引き返して巻き込まれたらどうするんですか。申し訳ないですけど、おれ喧嘩はからっきしなので守れる自信もありませんよ」
「鷹司さんは怪我をされてるんです。それに相手は三人もいました! 鳴海さんが来てくれたとしても、とても敵うとは思えません」

自分の目で見なければ安心できなかった。それが高橋さんを困らせていることはわかっていたけれど、鷹司さんに怪我まで負わせた責任が胸に重くのしかかっている。

「お願いします。助けに行ってください」

ひとりより二人、二人より三人の方が心強い。
その場にいるだけでも、味方の数が多いということで相手を牽制することができる。
しかし、了承の代わりに頭を下げた私の肩に、高橋さんの手が置かれた。

「……あの人は強いから大丈夫ですよ」

あの人、というのは鳴海さんのことだろう。
励まされる言葉のはずなのに、声の響きは暗い。その違和感に頭を上げた。
高橋さんはその鳴海さんが駆けつけているであろう方向を、どこかぼんやりと見つめている。その瞳があまりに遠くを見ていて、声をかけるのすら躊躇われた。

「行きましょう」

もう一度手を引かれた時には、戻りたいと言えるような空気ではなくなっていた。

* * *

男のひとりに組み付いた途端、背中を上から容赦なく殴りつけられた。
その重い一撃に、晴臣は低く呻く。

「くっそ……図体ばっかりでかくなりやがって……!」

三人をひとりで押さえ込むのは、まず無理だ。それをわかっていて、千佳を逃がした。
庶民育ちというだけあって、深窓の令嬢とは異なり千佳の運動能力はそこそこ期待できるものだと晴臣は思っている。だからこそ、走らせた。
助けを期待しているわけではない。あいつが逃げ延びればそれでいい。
いつの間にか損得勘定のそろばんがどこかに消え、考えることもやめていた。こんなことは、随分と久しぶりだ。

男のひとりが、晴臣を無視して千佳を追おうとする。その足をすかさず引っ掛けた。

「行かせるか!」

まんまと足に引っかかった男が地面に転がる。しかしそんなもの子供騙しに過ぎない。
男はすぐに起き上がると怒りに顔を真っ赤にし、拳を振り上げた。
これは、食らう。
意識を持って行かれれば、そこで足止めはできなくなる。それだけは避けなければと、奥歯を噛みしめた。その時だった。

「あ〜らら、派手にやってること」

場にそぐわないのんびりとした声に、全員が一瞬動きを止める。それに挨拶でも返すように、そのたれ目の男は軽く手を上げた。
会場の中で、見かけた顔だ。九条の人間何人かと話していたから、よく覚えている。

「加勢、いります?」
「いらないように見えるのか!」
「あ、やっぱり?」

晴臣と話していることで、黒スーツの男たちはこの男をこちらの味方だと判断したらしい。
首を締め付けていた腕の力が戻り、呼吸が苦しくなった。
晴臣は逃がさないようにと抱きついていた男の体を離し、自分の背後で首を締め上げる男の体に思い切り肘を入れる。それでようやく、まともに呼吸ができるようになった。
当然、自由を得た方の男は千佳が逃げた方へと走り出そうとしたが、その進路をたれ目の男が塞ぐ。

「もしかして、こっちにお嬢さん逃げたりしました?」

聞かれた黒スーツの男は答えなかったが、返事などなくとも目が物語っていた。

「それじゃあ、行かせるわけには行かないねぇ」

どうにか晴臣が男のひとりを羽交い締めにしている時、目を疑う光景が広がった。

「よっと……」

かけ声とほぼ同時に黒スーツが空を舞い、地面へと落ちる。
投げたのだとわかったのは、男が倒れ込んだ音が耳に届いてからだ。

「なっ……お前、何者だ!?」

思わず、晴臣が聞いてしまったほどに、たれ目の男の技は洗練されていた。

「何者って、ただのしがない探偵ですよ」
「探偵がそんなことできてたまるか!」
「そんなこと言われても……。あ、でも向かって来てくれないと何もできませんけどねぇ」
「はっ!?」
「だから上手いこと流すか、もうひとりくらい加勢を待ちましょう。すぐ追いつくはずですから」
「何を呑気な……っ」

探偵と名乗った男は、投げた男の腕を素早く捻り上げたが、そんなことで根を上げるような相手でもなかった。
腕の骨が軋むのも無視し、探偵を撥ね除ける。その無茶な逃げ方に、探偵はやれやれと言ったように一歩後ろへと下がった。
余裕はあるが、やる気は見られない。
助かった、と一瞬でも思ったのは間違いだっただろうかと、晴臣は男の首を締め付けながら考えた。

「しかし、こっちから逃げたとなると……」
「おい、後ろ!」

考え込んだ様子の探偵に、もうひとりの男が襲いかかった。

* * *

まだ混乱している屋敷の横を抜け、門を通り過ぎた。
ここまで来ても、上総さんたちに会うことはできなかった。あちらはあちらで、私を探して動き回っているせいかもしれない。

「高橋さん、どこに行くんですかっ?」

迷いのない足取りに、初めはそちらにみんながいるのかと思った。けれど、徐々に人の姿が少なくなっていくのに不安を覚えた。

「屋敷内は混乱していますし、場所を移動しましょう。一時的にうちに行った方が安全です」
「探偵事務所にですか?」
「はい。事務所なら、電話も使えますから」

後で連絡をするよりも、今この場でみんなと合流した方がいいのではないか。
そう意見しようと思った時には、一台の車のところまで来ていた。灰色の比較的よく見かける形の車なような気がする。

「乗ってください」
「あの、高橋さん……」
「屋敷に今安全な場所はありません。事務所が遠いというなら、他の場所でもいいから、今は乗りましょう」

真剣な顔で諭され、屋敷のことは気にはなったけれど頷いた。

「それなら、教会に」
「教会?」
「はい。神父さまなら、きっと助けてくださいます」
「……わかりました」

ユーリ神父の穏やかな笑みを思い浮かべると、少しだけ心が安らぐ気がする。
私が助手席に乗り込むと、高橋さんはすぐに車を発進させた。想像していたよりもずっと運転に慣れた様子が、少しだけ意外だった。
けれどそんなことを思っていられたのも、窓の外を流れる景色に見覚えがあるうちで……。

「高橋さん……道が、違います」

地理に詳しいわけではない。それでも、今走っている道が教会に向かっていないことくらいはわかった。
やはり、行き先を探偵事務所にしたのだろうか。それなら、そうと教えてほしい。
自分の抱える不安を押し隠すように、少しだけ笑みを含んで話しかける。

「少し……昔話に付き合ってください」
「え……?」

前を向いたままの高橋さんの横顔はとても冷たくて、まるで知らない人のようだった。


つづく

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