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にほんご回復中【2690字】|篠田千明

第一回 2690字

10年の海外生活を経て日本語がボロボロになったと語る著者。日本に戻り3年目の今「日本語を書く」ということに向き合う。話すことは出来るけれど書くことは難しい。
思考と生活を行ったり来たりしながら、動かない体を引きずるように果たして何文字まで書くことができるのか。
タイ、スペイン、アメリカ、中国、イタリア、日本、あらゆる世界をとびまわり活躍する奇才の演劇作家篠田千明による言葉のリハビリエッセイ。

 コロナが始まってバンコクから帰ってきて、3年になる。その前は7年間うろうろ生活をしていて、タイ語、英語、日本語が頭の中でごっちゃになっている状態が続いていた。3年の間ずっと日本にいて、日本語の会話の方は大分語彙が戻ってきた気がする。言い回しの意味だけじゃなく、それを使うタイミングもなんとなく出来るように戻ってきた。
 でも、書く方はなかなか戻らない。喉が痛くてご飯を少しずつ飲み込むような感じで書いている。自分の作品を説明することは出来るんだけど、ぼんやり考えていることをまとめるには、つい人と話して言葉にする方法を選んでしまう。
言葉の能力が落ちた代わりに、他のやり方は身につけているけれど、今また書けるようになったら、さらにそれにプラスするわけだし、母語なのだからまた書けるように回復するはずだ。
 この連載は、私が長い文章を書けるようになるまで、無理せずゆっくりリハビリをしていく。元通りにする、というより書くことを改めて確かめていこうと思う。まずは書きやすそうな、最近あったことから考えたことを、自己紹介がてら書いてみる。ハードルは低く。

 私は演劇作家で、最近は『まよかげ/ Mayokage』という、影絵人形劇を京都でやっていた。2月の京都は寒いって聞いてたけど意外とそんなこともなくて、お天気雪を見たのがテンションあがったけど、ここではよくある事のようだった。演劇をやっていたのは以前小学校だった会場で、遮光した真っ暗な部屋から外に出ると、湿気のないパラパラした雪が晴れた校庭に降って、地面で軽くバウンスしていた。
 本番が近くなると、やる事考える事が多すぎて箸が使えなくなる。脳みそが、その運動に容量割いてる場合じゃねえ、と告げてくる。おにぎり、サンドイッチ、焼き鳥、りんご、手で食べられるものを選んで食べる。なるべく手食がしたい。手で食べると、食べることにピッと集中できる。
 箸を使うのが普段はなんとも思わないけど、頭がゴチャゴチャした時は好きじゃない、と気がついたのは、日本から離れていたのも大きい。タイではスプーンか フォーク、麺を食べる時には箸を使うけど、それはあんまりストレスにならない。麺を箸で食うのは疲れていても日本でも出来る。お腹が空いているはずなのに、弁当には手を出さなかったりしたのが、あー、あれ面倒くさかったのか、と分かってからは、本番直前は箸NG、スプーン可能、手食ベストアンサー、という判断基準が出来た。

 選択肢は出来ると安心するけれど、迷子のきっかけにもなる。水筒についてずっと迷っている。
 いつの間にかカフェインがだめになっていて、水筒にノンカフェの飲み物を入れて持ち歩くようになった。使って悩んでいたのは、ミルクを淹れると、匂いがだいぶ取れない。牛乳の匂いがずっとしている。ルイボスティーのミルク入り、うまいんだけど、次の日ミントティー淹れると、むう…となる。それで水筒をもうひとつ買おうかと考えた。一本にはミルクを入れる用で、もう一本はそうじゃないもの。しかしそれをまだ実行していない。それをやると、今度は水筒をさらにもう一本増やしたくなりそうだからだ。ミルク入り用、ハーブティー用、ほうじ茶・中国茶用。そうやって三つ水筒を持つのも悪くなさそうではあるが、なんだか頭がごちゃつきそうな予感もある。そんな先のことは考えず、とりあえずもう一つ買えばいいじゃないか、とも思う。頭の中で選択肢が三すくみになり思考が硬直し、結果、未だに買っていない。

 演出は決断、とよく言われる気がするけれど、自分が演劇で試している作業は決断を遅らせる連続をしているようにも思う。要素が揃って見えてくるまで待つのも大事で、なんの要素が必要かは、やってみなきゃわからない。だから試してみながらパーツが揃うのを待っている。
 パーツが揃う、というのは予め決まったイメージのどこかが欠けているのではなくて、まだ形が定まっていない創作の全体像のイメージを支えるパーツを待っている。それは軟骨のようなパーツでも、一旦イメージを支えられて現実に起こせたら、その時から骨格を持ち始める。作品の透明な骨格をメンバーが頭の中で共有しつつ現実にプレイできる時まで、辛抱強く決断を遅らせ続ける。自分の演出は音で作っているから、試してみた時にセリフでも動きでも音で納得いけば、その時その場が再生可能な状態になる事柄がパーツとなる。
 京都の現場では、軟骨だらけのイメージを抱えて移動出来る気がしなくて、公演中は会場の真向かいにあるホテルに泊まっていた。喫煙可能な部屋で会場から最も近くて予算内のホテルが真向かいだったから決めたんだけど、予想以上に快適だった。集合時間の10分前までシーツにくるまり目を閉じていられるし、帰ってきて靴脱いだらすぐお灸も出来る。大抵は湯沸かし器があるからお茶も飲める。

 最近は、デカフェのアールグレイにハマっている。アールグレイの香りが好きというのもあるし、人類のカスタマイズ欲の先端を感じて良い。
 湯沸かし器のスイッチをいれて、ベッドの端に腰掛けて、お湯が湧くのを待っていると、またあの問いが訪れる。ねえ、ほんとはそのアールグレイにミルク入れたいんじゃない?でもミルク入れると匂いついちゃうからストレートで淹れようとしてるんじゃない?自分に正直になったら?そしたら水筒買っちゃう?でも一本ですら時々迷子になるのに、二本持っててもすぐまた無くしちゃうよ?
 そう。結論は決まっている。二本持っていてもいずれどちらかは無くす未来しか見えない。だからこの決断は、水筒をボールペンのように扱うかどうか、の決断を自分に迫られている感じだ。ペンを新しく買う時は、私はもう何も感じない。それはペンを無くした時にも同じように何も感じなくなっているということだ。
 ボールペンは人から借りられるけど、水筒はそうじゃない。自分の水筒は常に自分で管理してどこにあるか意識しておかなくてはいけない。その意識を無くすかどうか、無くしてショックを受ける自分の気持ちを消去するかどうか、勝手に自分に色々迫られている間に、ボゴボゴボゴと沸騰した音がして、湯沸かし器のスイッチが切れる。
 うん、それはまたいつか決めよ、と判断は保留して、ストレートで水筒にお茶を淹れ、部屋から出た。コップがあればこのお茶にミルクを入れるのは現状でも可能だしな、と頭でまだごにゃごにゃ言ってるうちに数メートルの道路を渡ってすぐに会場に到着し、その思考も校庭の横を通り過ぎる頃には言葉の網をすり抜けて、積み重なるイメージのどこかにすっかり吸収されていった。 


「にほんご回復中」は隔月連載です。次回の更新は5/26(金)を予定しています。


著者プロフィール

篠田千明|Chiharu Shinoda
演劇作家、演出家、観光ガイド。2004年に多摩美術大学の同級生と快快を立ち上げ、2012年に脱退するまで中心メンバーとして演出、脚本、企画を手がける。その後、バンコクに移動しソロ活動を続ける。『四つの機劇』『非劇』と、劇の成り立ちそのものを問う作品や、チリの作家の戯曲を元にした人間を見る動物園『ZOO』、その場に来た人が歩くことで革命をシュミレーションする『道をわたる』などを製作している。2018年BangkokBiennialで『超常現象館』を主催。2019年台北でADAM artist lab、マニラWSKフェスティバルMusic Hacker’s labに参加。2020年3月に日本へ帰国、練馬を拠点とする。

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