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容姿

今日は容姿について。いつもよりちょっとセンシティヴな内容だから、少し緊張。椎名林檎の『ありあまる富』を聴いてから書き始めることとします。

私は、長らく、物理的に容姿を磨くことーお化粧やボディメイクに力点を置くことーから距離をとっていた。もちろん自信があるからではない。

こだわることが怖かったのだ。

こだわるということは、意識にのぼる回数や派生して気にかける事柄が多くなるということで、時間も気持ちも投資することになる。ともすれば、自分のコンプレックスと真正面から向き合わなければならず、追い込んでしまいがちな自分は、いつしか病んでしまうんじゃないかと怖かった。

というか病んだ。昔。

それで、メディキュットも小顔ローラーもパックもスクラブも随分前に捨てた(私の美容知識は大学1年生でストップしている)。とにかく「美容」という土俵の外に行きたかった。

だから、いったん容姿は保留にした。
かわりに、かな、自然と、かもしれない。意識が向くものの内容や質が大きく転換した。

それまで以上に、繊細な言葉にたくさん触れ、口にする言葉に気を遣うこと、素敵を見つけられる力を養うこと、かっこいい音と出逢うことを、大切に思うようになった。心の中で責め、傷付けてしまった自分の口、目、耳、身体と、そして心自身を、まずは癒してあげたかった。そういう形でしかつくりえなかった豊かさが、今の自分には確かにあると言える。

でも、最近ふと心情に変化が訪れた。そろそろ美容に目を向けていいかな、という気持ちにようやくなれたのだ。

物を揃えられるほどの金銭的余裕が生まれたからかもしれない。自信の持てるものや挑戦したいことが他にできて、気張らずに容姿と向き合えると思ったからかもしれない。「偏差値」ではなく「私自身の持ち物」で、容姿を肯定的に評価してくれる人が増えたからかもしれない(「偏差値ではなく持ち物」というのは、以前どなたかが使っていらした表現)。おそらくそのすべてだ。要は、自分的にバックボーンが整ったタイミングだったのだろう。

とにかく、今なら、自分の持ち物を「労る」「大事にする」形で美容に気を遣えそうな気が、なんとなくした。

これから美容を通じて友人と新たな共通言語や会話が生まれるかもしれないと思うとわくわくする。きっと美容に詳しい子、美容を愉しんでいる子はたくさんいるはず。少しずつその世界に意識をならして、工夫する愉しみを見いだせたらいいな。世界との接点として唯一無二の自分の容姿を愉しめるようになれたら嬉しい。

そして少し話はそれますが、最後に。
容姿への誹謗中傷・イジリに対する免疫など、本来習得する必要がないものです。私は、今仕事で、容姿コンプレックスに命懸けで向き合っている子どもたちを数多く見ています。ひとから心ない言葉を投げつけられて傷付いている子どもや、それが理由で自分自身の身体を傷付けている子ども。彼らの心情を思うと、毎回心の底から悲しくなり、悔しくなり、湧き上がる怒りで涙が止まりません。どうか他者を語る言葉が、その人の持つ「素敵」を表現するための、あたたかなものでありますように。私の祈りです。

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