企画立案者という空想

毎日、毎日企画を考えている。
ある人が串に肉を刺し焼き鳥にするように、ある人が書類に印鑑をするように、ある人が他人の命を救うように、僕は企画を考えている。

同時にどこまでが誰の手柄なのか。
今年はよく考える。

或焼き鳥屋のねぎまを美味しいとお客さんに褒められたとして、主人公は店長だけれど厳密に言えば肉を切って焼いた担当だとしよう。「特にネギがいい味してるね。」と言われた。

これは僕の手柄ではないと主人公は感じる。ネギを切ったのは僕ではない。野菜は切り方によって大きく味を変える。それはネギを切った店員が褒められるべきだ。これは当たり前すぎる。では、肉を褒められたらどうだろう。僕は肉屋に感謝する。肉は新鮮さはもちろんのこと下処理は店に届けるまでが命だろう。数多の肉料理やの中で褒められたとすれば、それはやはり肉屋が優秀だとしか言いようがない。「焼き加減がいい。」と言われれば炭だろう。「タレがいい。」と言われれば業者だろう。すべてを支えているのは店長である僕の能力ではなく串の技術だろう。そこまで卑屈になるなという人もいるだろう。間違っている。奢るな。どれだけの他人の知恵に救われているか。目に見えたものだけで判断するな。他人から聞いた噂だけで知ったようになるな。

信じるしかないのは結局、自分の感覚だ。不味いものを美味いと言えない。他人が作ったものを自分が作ったようには取り繕えないんだ。

では僕は何を褒められたのだろうか。
僕の答えは「選択」だった。ネギを切ってもらった店員、優秀な肉屋に炭やタレ、美味しいと言われたことすべてに関わる事象を選択したという事実。五感では感じられないすべてを、お客さんに伝えたという事実が僕は喜ぶべきだと感じる。
そして喜んで褒められた箇所に携わる方々をお客さんに差し出す。「作ったのはこの他人です。」と。

手柄なんて発想が愚かだ。
企画性や統括力を褒められるよりも、僕はこの価値観を評価してほしい。そして名前がない多くの同志が救われてほしい。スタッフが一番の財産である。

この話はすべてフィクションです。

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