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栓と流れ

すごく長い月日をかけて書き足しを繰り返したものなので、つながった文章になってないし粗いし長いです。
でも、これは整えたら失われてしまうものがあるかもとおもったので、このままで。

わたしのすごく好きなマンガに『彼方から/ひかわきょうこ』という作品がある。この作品の好きなところをがんがん語りたいところだけれど、今日はそこじゃない部分について書く。

マンガには柱というものがある。雑誌連載時にページの端に広告が載っていたりする部分なんだけど、これがコミックスになると作者さんのフリースペースとして近況とか色々なことが書かれていたりする。わたしの愛する空間である…

話は戻るけども、わたしは『彼方から』の柱ですごく印象に残っていることがある。その柱読みたさに全部読み返すこともあるぐらい。
たぶん、わたしにとってすごく大事なことが書かれているのだとおもう。
引用する前に軽く説明すると、それは『ネームについて』という柱で、ひかわさんはお話をつくるときに毎回ストーリーからセリフからすごく長く悩んで時間をかけちゃうのだという。で、そういうふうな悩み深い日々の中で一つ発見したことがあるのだという。
以下、引用。

まずあらすじを作りストーリーを組み立ててネームに入るわけですがスムーズに進んだためしがありません。必ず詰まります。流れが止まるといいますか…
話があらすじ通りに運んでくれなくなるわけです。
思うようにキャラクター達が喋ってくれない、動いてくれない。

そういう時はとにかくあーでもないこーでもないと悩み苦しみどんんどん〆切が迫ってくる。
でもできない。
この辺で心身共にヘトヘトになってます。とことんまで追いつめられると

もーいい!
もーなんでもいい!
とにかくページを埋められたらなんでもいい!

となり…それまでの必死さがポンと抜けます。であらためて「何でもいー」状態でネームに向かうと……できるんです。それも今まで必死でこだわっていた「あーでなくちゃいけない。こーでなくちゃいけない」ではない全く新しい展開でしかも思っていたよりずっとよい形になってたりすることが多いわけです。
…で、それをふまえて最近心掛けていることは

ネームに詰まった。
悩んでも悩んでもできない。そういう時は即、悩むのをやめて「発想の転換」をする。何かこだわらなくてもいいことにこだわってないか検討しなおす。

どうも大きな川の流れのようなものがあって素直にそれに乗っかってると自然に前に進むのに、ふと余計なものにとらわれるといつのまにか流れからはずれて詰まってしまう…そんな感覚があるのでずっと後退して本来の流れを捜すって感じ。

この心掛けで以前のように袋小路に入ったまま、無駄な労力と時間を費やすことは少なくなりました。…ような気がする…たいして変わらんかも…

なんだか抽象的な話になりましたがこの感覚生活面でも応用しているんです。

コミックス『彼方から/ひかわきょうこ』

これ。これを折につけ思い出しているのだった。
というのも、わたくし数年ほど創作の栓がつまった状態で。
しかも明確にその栓がつまった時期と、そのとき何が起きたかまでわかるのだが、でもそれがどう作用してしまっているのか、どうしたら流れるようになるのかがわからないまま。
向き合おうとしても、なにもはっきりしたものは掴めず、生活のほうが忙しくなったのもあって、そのまま数年が過ぎてしまった。

でも、これが印象に残ってて何度も思い出してるってことは、余計なものにとらわれて、本来の流れから外れちゃったんだろうなという思いがある。
余計なものってなんなんだろう。
でも本来の流れ自体が、前みたいになるってことじゃないのかもしれない……と最近おもう。
そもそも本来の流れから外れ始めたの、実はその出来事じゃないのかもしれない。
わたしは『なんでもいー』と思い切れてなくて、『こうなりたかった』憧れに固執してんのかな。
そもそも『こうなりたかった』が捨て切れなくて、まあ小説のことなんだけど、すらすらできなくてしんどくても、一度はいけるとこまでやってみたくて、そしたら賞をもらえて、ほらやっぱりこの道なんだ!この道で間違いなかったんだ!っておもったけど、あとちょっとで結果を出せるかもってめちゃくちゃ頑張って、失敗して人に迷惑もかけてしまって。
まあでももう一度頑張ればいいだけだったのに、もう頑張りたくなくなってしまった…あそこまでは何も考えずに頑張ろう!のあそこを越えてしまったから、たぶん糸が切れた。
そういう続かない頑張り方をしてしまってきてたんだ。
本来の流れじゃなかったのかな。それを認めたくないのかな。すごく『こうなりたかった』から。
でもほんとうはそんなこんなよりショックなのは、途中で何より大事なもの、創作の楽しみを落っことしてしまったことだった。


……と、ここまでの記事を書いたり消したりしてるうちに、わたしは流れがまた流れるようになったり、さらにはまた止まったりしていた。
こないだまでは止まってて、昨日今日で少し流れた。
三寒四温みたいになっていけるかな。
なぜちょっとでも流れるようになったのか。
原因とか解決法とかわからない。そもそも解決してない。
わたし、また、そのときやっていたものに戻って
いる。
仕事うんぬんではもうだめかなとおもう、正直致命的に向いてないともおもう。でも、多分そんなことはどうでもよくて。
そのときやっていたものがちゃんと終わってないのだ。終わらせてないから、次のことが思いつけないし、踏み出せない。単純にそういうことな気がする。
一番目にやりたいことが難しすぎるからと言って、ちょうどよさげなものを自分にあてがいはじめると、とたんにわけがわからなくなる。
あと、急速になりたかったものになれるはずかないから、スモールステップが必要になる。


……と、さらに上まで書いて止めてたんだけど、上で書いていた、『そのときやっていたものに戻る』というの、やり終わったのだった。
いちおうちゃんと納得がいくところまで。もう少し時間を置いて、最後にもう一度全体を整えようとはおもってるけど。(まだやるんかい)
でもやってみてわかったのはもうこれ以上なおすんなら全部書き直さないと無理だなってこと。
もう次だなって気持ちが自然に生まれた。
あと書きながら、最後らへん、ようやく自分がやりやすい方法がわかったりもした。
最初は手書きの方がいいな…画面のなかの文章は簡単にそれっぽくなりすぎて、逆に自分の心とずれていってることになかなか気付けなかったりするなって。変に書きかけの文章に愛着湧いてたりすると余計に、それがノイズになって詰まったりする。
だから、最初はもうつたない文章で粗っぽく最後まで書いちゃうのがいいな。プロットとかではなくシーンとかを実際。そのほうが流れがちゃんと見える。見失わない。

あのね、結局おもったんだけど、わたしが感じていた『栓』は、できることをやっていなかっただけなんじゃないかって。
わたしが選んでしまっていたんだ。もうそれは出なくなっていたのに。出るものは他にあったんだ。
でも、わたしはそれを認められなかったの。
選んだものが出てきてほしかったんだ。
そういうことだったんじゃないかとおもう。
それで何も出ないと感じてほっといて、何も出さない日々が続いて、からだが凝り固まってしまった。
『やっていたこと』のつづきをやったらできたよ。
とりあえずその最後までやったら、『もうこれはいいかな』と思えたから、今はもう何者になるためでもなく、出るものを出す日々にしたいかなぁと感じる。
わたしはわたしがつくるものが好きだよ。もっと見たいよ。
それで十分じゃないか。
ほかのひとの話ではなく、わたしにとってはそれがすごく大事なことだったんだ。

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