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人の排泄を笑うな。

「他人の下の世話なんて、私には無理よ」

学生の頃、友達が言った。彼女はどうしても他人の排泄物を触りたくないから、その業界の就職が無理だと言った。彼女の言葉は、何となく下の世話を見下していた。

保育、介護、医療…排泄の介助をする仕事はたくさんある。学生時代、私も人の排泄の世話は嫌だった。ところが、縁あって日常的に人の排泄介助に携わったおかげで、何だか生きやすくなった。
今日はそのことについて、聞いて下さい。 

日常的に排泄介助をする職場に数年いた。時間が来ると、相手をトイレに誘って排泄を促したり、オムツを交換する。もちろん嫌だった。自分のものならいざ知らず、他人の世話である。仕事だからと自分に言い聞かせ、息を止めて介助した。手袋をつけているのに、荒れるほど手を洗った。

ところが、介助を必要としている人と関係ができると排泄介助が大事なコミュニケーションになってくる。カーテンを閉め、密な空間でオムツを交換する。その時に話す、中身の深いこと深いこと。する方もされる方も、他人ではなくなったような、何とも言えない繋がりが生まれるのである。この仕事を経験してから、私は他人の排泄物にそれほど抵抗がなくなった。むしろ、この仕事での関係づくりには必要とすら思う。

冒頭の彼女のことを考える。なぜ、人は排泄物そのものや、排泄を失敗することに過剰に拒絶するのだろう。衛生面もあるし、 汚物を本能的に避けるのは当然だ。理由は様々だろうが、今はオムツが外れた時の記憶について考えたい。

赤ちゃんが成長するとトイレトレーニングが始まる。近頃は、失敗しても焦らずあたたかく見守るらしいが、私の子ども時代はスパルタだったかもしれない。そして、いくらのんきな母親でも失敗したときの落胆を子どもは感じ取るはずだ。そして、おもらしにネガティブなイメージがつくことになる。

私は小学4年生の頃、皆の前でおもらしをした。あの時の絶望感ったらなかった。からかわれた。とても恥ずかしく、ダメな人間になった気がした。
でも、排泄を失敗する人間はそんなにダメなのか。排泄をする以上、誰にもリスクはあるのに、子どもの頃のおもらしが、なぜこれほど切実な問題になるのか。それは 子供には、オムツ外しの時に刷り込まれた、失敗はいけないという思いがあるからだろう。その思いが切実であればあるほど、失敗した人を見下し、からかってしまうのだと思う。
実際、大人になり、おもらしと縁遠くなると、他人の失敗に寛容になる。失敗に過剰反応しているのは自分だけで、周囲は気の毒とすら思っているかもしれない。 

オムツが外れると、人は生理的現象全てを支配した気分になる。頭で考えることが全てになり、心身の声が届きにくくなるから、高熱を押して出社したり、不眠が鬱の予兆と気づかなかったりする。
大人になり私は、本能とも疎遠になった。セックスも経験したが、体からわき上がる声を受け入れるには時間がかかった。

この仕事を経験してから、オムツをつけていた頃と同じく、排泄と自分が地続きになった。今、誰かがお漏らししても、私は他の人より動じずに、処理ができるだろう。驚きや嫌悪感も、他の人が受けるより少ないと思う。

そんなことを思うと、この仕事のおかげで、何だか身軽になれた気がするのだ。

排泄や性、その他の生理現象や本能が自分と地続きであることを受け入れられると、考えに余裕ができて柔らかくなれるように思う。

人の排泄を、笑うな。

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戸山 文

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