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第13回「夜逃げしたことある?私はあります」

 月のはじめになるとAmazonでカップ麺を3ケースか4ケース注文しました。1ケースが12個入りだから、36個~48個。
 これを1日1回か2回食べ、それで私の毎日の食事は終わりでした。服を着て外出する気力があるときはセブンイレブンか、近所のラーメン屋。完全に糖質依存症でした。
 上京するまで何年も、ほぼ寝たきりのような生活でした。
 汗と皮脂のしみ込んだシーツは冬場には氷のように冷たくなる。築40年、家賃3万2千円のアパートの排水管は寿命を迎えており、せっかく乾燥機能つきの洗濯機があるのに、排水ができずに使うたびに洗面所は水びたしになりました。筋肉の落ちきった体には洗濯物は重たく、コインランドリーまでの道のりは悲鳴をあげるほど苦しいものでした。
 シーツの洗濯回数を減らすために、私はその上にさらにバスタオルを敷いて寝ていましたが、たまったタオルを洗濯しに行ける回数も多くありませんでした。
 台所の排水口が詰まり、流れない汚水がシンクぎりぎりまで満ちているのに、長い期間なんの対処もできなかったことがあります。たしか、パイプユニッシュをまるまる3本も投入して、やっと詰まりを解消させました。
 大量に発生したコバエが睡眠中しょっちゅう鼻や耳の穴に入ってきても、どうしても部屋のそうじがする気力がわかない夏もありました。
 放置されテーブルの上に置かれたたくさんのカップ麺の飲み残しのつゆには、次々カビが湧きました。彼らは私よりよほど生命力がある、この力を分けてもらえないだろうかとと感嘆して眺めるばかりで、それを片づけられることはまれでした。
 飲酒量が増えたせいで飲んでも酔えなくなり、朝から飲むことが増えました。つまみなし、空腹の状態で飲むのが一番すぐに酔えて、大量に飲む必要もなく、コスパがいいのです。その結果、脱水症状を起こして救急車を呼んだことがあります。
 外出どころか、届いた日にそのまま玄関に積み上げただけのカップ麺を取りに行く力すらわかない日もありました。便意をもよおしても起き上がるまで何時間もかかる日なども困りました。
 上京して3年半ほどたったある日、インテリアにこだわりのあるおしゃれな部屋として掲載させてほしいと雑誌社から連絡をいただき、その後本当に載りました。たった数年前まで私が上記のような環境で生活していたなど、現在の私しか知らない人には信じられないかもしれないし、私にも信じられません。
 とにかく、どん底まで落ちきった時期でした。

 最大に心身ともに病みきっていたあの頃の私の頭の中にあったのは、ただただ恨みでした。「なぜ? どうして?」いつも心のなかで叫んでいました。
 私は、こんなにも人に尽くしている。
 人に愛されるよう、いつも私は、心正しき善人でいるよう努力している。
 なのに誰も私に報いようとしない。誰も私を愛さず、守ろうとしない。これはなぜなのか。ずっと世の中を責めていました。社会は私を必要としていない。世界は私に死ねと言っている……。
 愛されない、必要とされない自分は生きている価値がない、それだけが私がこれまで社会から学んだ価値観でした。
 愛されるために努力して本当の自分を曲げなくてはならない。
 でも私の魂は私のありのままをどうか誰かに愛され、受け入れてほしいと常に叫んでおり、その欲求を満たしてくれる人を探して回っていました。
 黒いハイエースがクラクションを鳴らして、中の若い男が私に声をかけました。
「お姉さん、どこ行くの? 遊ばない?」
 即座にみずから後部座席に乗り込むと、相手が2人組ということがわかりました。
「ねえ、このあとどうすんの? 私、友達いないから誰も呼べないよ。3人でヤるの? それでもいいけど」
 私の言葉に2人は顔を見合わせて苦笑いしていました。運転手と私がセックスするのを、あともう1人が楽しそうに眺めていました。
 私の頭は狂っていました。
 

 告白すると、一時期、自分をXジェンダーだと自認し、そう名乗っていたことがあります。
「私は、FtX(※Female to X、女性からXジェンダーのトランス)のトランスジェンダーというセクシュアルマイノリティーです」
「私の性自認は女ではありません。女扱いをするな!」
 千円カットの床屋に飛び込んで、長さ2ミリの坊主頭にしてくれと頼んだときには大変驚かれましたが、オーダー通りにしていただけました。
 坊主頭はとても快適で気持ちよかった。でも鏡にうつった自分の姿を見たとき、これが自分自身であるのかと疑問を抱きました。
 私が子どもの頃にあこがれてなりたかったのは、着せ替え人形やおとぎ話の世界に出てくるような美しくて可憐なお姫様です。でもいまの私はいったい誰なのか?
 あの頃をいま振り返ってみると、自分に痛ましさを感じつつも、その傲慢さを反省します。私は「女」であるがゆえに受ける暴力や差別、押し付けられる役割に苦しみきっていました。でもそれは私だけではないです。そんなものに納得している女はいないのです。自分だけが特別に苦しいかのような、幼稚さゆえの選民意識がありました。
 同性に対するミソジニーがあったと思う。同性を見下していたと思う。だけど、言い訳させていただくなら、あの間違いを体験しなければ、いまの自分はなかったと思う。

 札幌の人間関係はとても狭く、精神を病んだ私の奇行は広まり、私と直接会ったことがない人間まで、私の知り合いに対して
「あの人と付き合うのはやめたほうがいい」と忠告するまでになりました。
 つらかった私の精神をギリギリで支えてくれたのはやはり創作活動です。その頃SNSで知り合った東京の女の子とささやかながらバンド活動の真似事をやっていましたが、何しろ距離が離れているので、スタジオ入りは年数回、ライブは年1回程度とペースが遅い。
 なのでメンバーの彼女からはかねてより上京をすすめられていましたが、なにしろ生活保護下では引っ越しに厳しい条件がありますし、ずっと二の足を踏んでいました。
 ゴミ屋敷を残し、スーツケース1つで飛行機に乗ったのは、ちょうど5年前、2018年1月7日だったと思います。福祉事務所のケースワーカーに許可もとらず、まだ新しい住まいも何も決まっていませんでした。
 地元の人間関係の行き詰まり、SNSを介した東京の人脈、そして双極性障害下の躁状態という要素が、この非常な衝動を後押ししました。そして私はついにホームレス状態となりました。

 あのどん底の生活をもう一度生き抜けと言われたら、無理と答えます。人生で二度とあの試練は耐え抜くことはできません。そして8年間ほども住んだアパートを夜逃げのように捨て、見知らぬ新天地で人生やり直せと言われても、やはり絶対に二度とはできません。
 しかし住む部屋ごと捨てて出ていくというのはある意味究極の断捨離で、正直言って、ものすごく気持ちよかったです。まさに死んで生まれ変わったような、輪廻転生した気分でした。自由になった私は新しい生活への期待だけがあって、住む家を失っても心はワクワクと躍っていました。
 ゴミ屋敷の処理や解約は、アパートの契約保証人である親に押し付けることになってしまいました。これを機会に両親とは完全に縁が切れることになります。
 生まれて初めての本格的な反抗かもしれません。でも、長い長い共依存を断ち切るきっかけになり、回復のプロセスとして、結果的に重要な第一歩になったと思います。もう私にはこの選択肢しか残っていなかったのです。
 

 思いつくかぎりの知り合いの家やドミトリーなど、1ヶ月ほどもあちこち転々と泊まり歩いて流れ着いたのは、荒川区と台東区にまたがる山谷のドヤ街でした。
 ここで私は本格的に、死と再生の物語を体験することになります。

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