シン・エヴァンゲリオンと当時のオタクと多様性と見たこともないドライブマイカーについて

速いものでシン・エヴァンゲリヲンを見てから1年以上経った。当時は『興奮冷めやらぬうちにブログを書こう!』と色々案を練っていたのだがそのうちに忙しくなり、気が付くと1年経っていた。色んな人とエヴァについて話しながら思ったこと、思い出したことなどについて雑に書いていく。

シン・エヴァンゲリヲンの感想

結論から言うと自分にとってシン・エヴァンゲリヲンは素晴らしくて滅茶苦茶見てよかった作品だし、すごく真面目に『これを見たことで救われた』と思える作品だった。作り手の人には本当に感謝してるし、マジで作り手にはビールの一杯でも道端で会ったら奢りたい気分だ。本当にありがとうございました。

しかしまぁ『救われた』みたいな意見を持っている人が当たり前なんだが全てではなかった。周りの同世代の人たちでも『良いけど救われるって程でもない』とか、あるいは『旧劇のほうが良かった』と言ってる人も居た。

まぁ普通、映画一本見て『救われた』なんて発言は異常なので例外なのは僕の方だ。つまり僕のエヴァに関する思い入れが異常なんだな、と気づいた。そして話をしていくうちに旧劇の話になり、知り合いが、

あれを見た時は『庵野、やっちまったな』」と思った。

と言った。そこで私はふと気づいた。自分は当時、『作り手の目線』で作品を見てなかったな、と。当たり前だけど創作物は基本誰かが作ったものである。そしてそういうメタっぽいというか、作り手をある程度想像しながら見るものなのだ。極論するとこれがフィクションか否か、という話で、当時自分は勿論フィクションだとは認識していたが、かといってそういった様々な角度からの認知で作品を鑑賞していた、とは言い難い気がする。

当時はエヴァ関連のムックやなんやらを買い漁ってはいたが、設定資料集のようなものが殆どで、スタッフや監督のインタビューなどを読んだ記憶が一切ない。ふと思い立ってその後Youtubeを検索してみると庵野監督のインタビューやドキュメンタリーがそれなりに出てきてビックリした。当時エヴァにハマっていたにも関わらず、監督に全然意識が向いていなかったのだ。
ひたすらにエヴァの作品のディテールにまつわる情報だけ収集していたのだろう。

このコンテンツの鑑賞のし方は子供っぽいし、一歩間違えると犯罪に走りそうだな、と思った。しかし、多分自分のような層が居たからカルト的な、あるいは熱狂的な人気に結び付いたのかもしれない、とも思った。スタッフがどうこう、監督がどうこう、といった若干メタな受容のし方は冷めやすい一方でコンテンツとの距離感が適度に離れていて健全なようにも思う。

まぁそんなメタ的な受容のない、ノーガード戦法みたいな状態でエヴァでハマり、そして旧劇を見てしまった自分はデカいダメージを負ったんだと思う。隕石が落ちたことの意味や、聖書の意味を考えるのに近いのかもしれない、と思った(キリスト教に詳しくないので全然的外れかもしれないが・・・)。

なので新劇場版はそのダメージを克服するような話、傷の上にかさぶたを貼るような話だと捉えていた。そして無事貼られたので自分はとても満足したのだ(感想としては満足、というよりかは安心に近かった気もする)。

ただ、客観的に見ているとそれなりに穴もある、というか突っ込みどころも沢山ある作品だった。結構過激なことを言う知り合いは、

旧劇の方が良かった。普通の作品になっちゃった。

と嘆いていた。ただ、自分はそれを聞いて『ああ、僕はエヴァに普通の作品になってから終わって欲しかったのかもしれないなぁ』と思った。
『あれはなんだったんだろう』『あの作品が好きだった自分はなんだったんだろう』と思いながら20年ぐらい過ごしたが、もう疲れた。いや、あるいはもう充分悩んだんだから前に進んだっていいじゃん、みたいな気持ちなのかもしれない。

当時のオタクの話

最近SNSでフェミニズムやダイバーシティの話をよく見かける。その時僕はまさしくエヴァを見ていた頃のオタクだった自分を思い出す。

僕は子供の頃から漫画やアニメが好きで自分でノートに漫画を描いていた。小学校の間に10冊ぐらいは描いた気がする。図画工作部(漫画研究部はNGだった)を立ち上げて漫画アニメゲームを学校にも持ち込んで(漫画そのものはNGだったので下敷きとかだったり、自分で複写したものだったり)放課後も楽しく過ごしていた。

小学校までは今思えば『アクティブで漫画好きな子供』というカテゴリだったように思う。中学に入ると漫画研究部に入りエヴァや角川スニーカー文庫などの影響で『オタク』に分類されるようになっていった。私が通っていたのは中高一貫校だったのだが、学年が上がるごとにオタクに対する風当たりが強くなっていった。高校3年ぐらいになると意味もなく突然頭を叩かれたりすることもあった。

しかし、あまりそれに対して怒る事はなかった(勿論嫌だな、とは思っていた)。当時、オタクはとても気持ち悪いものだったからだ。外からみたパブリックなイメージ、つまり教室のすみや絵画教室でこそこそしているやつ、みたいな点以外にも内面的にも『オタクは気持ち悪いからしょうがない』と思える点があった。

性描写の過激な二次創作が割と流通していたのだ。同人誌とかそういった類のものである。多分に漏れずそういうものも見ていたため、そして自己嫌悪に近い感覚を持つと内的なイメージと外的なイメージが一致して『オタクは気持ち悪いから多少迫害されるのもしょうがない』という気持ちになってしまった。しかし今思い返してみるとエヴァのプラグスーツのデザインのあたりですでにこの『後ろ暗さ』はあった気もする。

兎に角まぁそんな感じで自分にとっての10代20代はオタクであり、マイノリティであり、迫害の対象であった。実際にニュースで犯罪者の家から漫画や同人誌が見つかると『オタクは犯罪者予備軍』という類の報道がよくなされていたように思う。

しかしいつの間にかアニメや漫画やゲームはコミュニケーションツールになり、それを受容するオタクもマイノリティや迫害対象を表す言葉ではなくなってしまった。結構これは衝撃があり、「なるほど。マイノリティであること自体がアイデンティティとしたら駄目なんだな・・・」と思った。

話を戻してダイバーシティの話だ。今の多様性は基本的には性の話になりがちだけど、その点で言うと男性で異性愛者であり、多分もっとも『マジョリティ』であり『権力側』である分類に区分される。しかし、自分としては『男性』という性よりも文化的な『オタク』というものへの自認が強い。そしてオタクは最近までマイノリティで迫害される側で、最近社会が勝手に変わって急に手のひらを返して迫害されなくなった。なので「マジョリティだ」と言われることにすごく違和感がある。

が、しかしこれは私自身が認識を改めるべきことだとも思っている。オタクだろうがなんだろうが私は男性だし異性愛者で、その点ではマジョリティで、意識せず優遇を受けている、と言われたらそれに返す言葉はなく、ただ受け入れるしかない。一連の流れから私が学んだことはこうだ。

・迫害されるかどうかは社会状況によって(場合によっては簡単に)変わる ・迫害される側であることをアイデンティティにしてはいけない
・人間は複数の属性を持っており、どこかではマイノリティになる

もっと突き詰めるとこうだ。

・人間どっかでは加害者だし、どっかでは被害者だ

SNSを見てるとフェミニストとオタクの議論もちらほら見かける。が、よく見ると本質は「お互いに被害者であることを主張し続けているだけ」の場合が見受けられる。これでは議論にならない。お互いがお互いに自分が無意識の加害者になっている可能性を議論しなければ極論にしかならず、議論がまとまらないのではないか、と思う。

見てないドライブマイカーと90年代00年代アニメ

僕は村上隆があまり好きではない。学生時代に有隣堂に平積みされていた『スプートニクの恋人』を読んでそのヤマもオチも良く判らない、なんか雰囲気だけある会話が羅列された文章を読んで「なんじゃこりゃ」と思って以降手に取っていなかった。

しかし最近知り合いが村上春樹好きだと判り、「もう一回だけ村上春樹トライするなら何を読むべきか」と聞いて「風の歌を聴け」を買って読んだ。

20年ぶりぐらいに読んで、自分的に良いと素直に思える所と受け入れられないところがより明確になった。

矢張り文章、というかキャラクターが繰り広げる会話はとても心地よいものがある。学生の頃読んでいたライトノベルで『ブギーポップは笑わない』というシリーズがあったのだが、あのあたりは村上春樹の影響をとても受けていたのではないだろうか、と思った。

また、明確に村上春樹からの引用が多分に組み込まれた作品も結構あるようだ。『廻るピングドラム』などは村上春樹の作品からの引用がいくつかある。

恐らく自分が育った90年代00年代のコンテンツは村上春樹の影響をとても強く受けているのでは、と思った。

一方で村上春樹作品の受け入れられないところも明確になった。それは男女間の関係性だ。自分としてはこの歪な関係性がどうにも好きになれない。この好きになれなさ何かに似てるなーと思ったら昔懐かしいハーレムものアニメだった。ラブひなとか。

結構この性に関する描写の問題は村上春樹の文学賞取れる取れない問題にも効いてるのかもしれない。

最近評判だったドライブマイカーは村上春樹原作ながらこの問題をうまく避けて描いている、とどこかで聞いたので時間を見つけてみてみようと思う。

Primeの映画のリンクはこちら。

と同時に、上で上げた90年代00年代コンテンツはそういったドライブマイカー的な、村上春樹をうまく調理したようなコンテンツなのかもしれない、と思った。SNSで「自分がどれだけ変わったかは昔読んだ本をもう一度読むと判る」という発言を見かけたが、コンテンツ全般に言えるだろう。今見返してみるのも面白いかもしれない、と最近思っている。


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