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論語と算盤 要約⑤ 理想と迷信

道理ある希望を持て

国力を挙げて戦争に向かうのは、王道ではない。

平和が訪れた時、相当な覚悟をして
相手国との信頼関係の構築を心して行わねば、
その後の商業は成り立たないからだ。

何よりも重要なのは、「信」の一文字。

これがない限り、日本の実業界は成り立たない。

商業道徳、
この理念にのっとって健全なるビジネスを行う限り、
日本の実業界の富は増大し、
人格も大いに進化するだろう。

この熱誠に要す

「趣味」には、「理想」「欲望」
「好きなことを楽しむ」という意味がある。

「仕事」とは、命令に従って処理していくことだが、
「趣味をもって仕事を行う」と、どうなるだろうか。

この仕事はこうしたい、ああしたい、
こうなったらこうなるであろう

というように、
理想や欲望を加えてやっていく、
楽しい作業になる。

だからこそ、

仕事を趣味にしよう。

どんな仕事の中にでも楽しみを見いだせれば、
仕事の中に趣味が見つかり、
自然と創意工夫が沸き上がる。

更に一歩進んで考えみると…

人間として生まれた以上、
生きる事自体を趣味にしてはどうだろうか。

そうすることで、
どんな行動にも、生き方にも精神が宿る。

お決まりの人生だ、
運命だから仕方がない、
やらねばならない仕事だと思うから、
人生や仕事に従う事になってしまい、

働く事も、生きる事も、形だけのものになってしまう。

ただ食べて寝て、その日を送るだけの人だったら、
それは肉体が存在しているだけに過ぎないのだ。

どんなに年をとっても、生きることが趣味、
世の中に役立つことを趣味にしたら、
その行動の中に、理想や希望が入るので、
躍動感 エネルギーが生じてくる。

日本に活気を取り戻すには、
生きる事、働く事を趣味にとらえる事が出来る人を増やすこと!

例え思った通りに行かなくても、
何かに繋げる、繋げようという創意工夫が自然に沸き上がり、
新しいアイデアが沸いてくる。

「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」『論語』

「ものごとを知識として知っているだけの者は、これを愛好する者におよばない。これを愛好する者は、楽しんでこれと一体になっている者にはおよばない」

仕事を趣味として楽しもう、
生きることを趣味として楽しもう、
それこそが、何事に対しても情熱が持てる秘訣である。

道徳は進化すべきか

ダーウィンの進化説のように、道徳も進化するものだろうか。

中国には二十四考という、後世の範として、
孝行が優れた人物24人を取り上げた書物である。
そこに郭巨という貧しい者がおり、
母親に食べさせるお金がなく、
「夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」
と、子を生き埋めにしようとしたところ、
黄金の釜が出て、郭巨の孝行をほめたたえた

今の時代、親孝行のために子供を生き埋めするなどは、
とんでもないことであるが、

このようにみると、道徳というものは、
世の中の流れに従い、歪曲しやすいようである。

そうなると、昔の道徳など価値ないものではないかと
思うかもしれないが、

科学や文明が進化する前の時代の、
古の聖賢たちの説いた道徳こそ、
人間の本質を描いており、
不変のものであるように思える。

これは東洋のみならず、西洋でも、
文明の利器が発達する前の時代の、聖賢たちの言葉は、
如何に時代が変わろうが、本質を述べているので
永い間ずっと尊重されてきた所以でもある。

かくのごとき矛盾を根絶すべし

文明が進めば、道理を重んじる心も、
平和を愛する気持ちも高まってくる。
そうなると、戦争など不要になるはずだ。

文明が進めば進むほど、戦争の凄惨さが強くなるため、
戦争はなくなるのではないかという意見もあるが、
現実はそうではなく、戦争はなくなっていない。

そう考えると、今の文明とは、果たして真実の文明なのだろうか。

本物の文明とは、弱肉強食の世界ではなく、
地球にいる全ての人が、
自我を抑え相手を思いやる道徳観を持つ社会、
それこそが、真の文明社会なのではないか。

今の世界は、まだ文明の足りない
未文明世界なのだろう。

人生観の両面

人は生まれた以上、何らかの目的を持たねばならない。

それでは、「目的を持つ」とはどういうことか。

自分の得意なことをもって、
その能力を十分に発揮し、社会を救済しようと心がけること、
心で誓うだけでなく、
行動に、形にして現わすことこそが、
目的を持った生き方だ。

政治家なら政治家の本分を尽くす、
学者なら学者の本分を尽くして、
社会を救済しようと行動をすることこそが、
それぞれが存在している意義であり、
生きる意義、
目的をもって生きることである。

しかし、そうは考えずに、
自分の才能を、自分のためだけに使おうする人が多い。

彼らからみると、
他人や社会のために自己を犠牲にすることの方が、
無理があり偽善者的で怪しいことではないかと思うだろう。

自分のために自分は生きているのだから、
自分の為に働くことは当たり前だと主張する。

そういう人たちは、何か事が起こると、
自分の利益を守るために行動する。

借金は、自分が自分のためにしたのであるから当然返す。
税金も、自分が生きていくための社会費用だから、
きちんと上納する。

しかし、他人を助けるための税金は支払いたくない。

このような人物が増えてくると、
思いやりがない社会となり、そういう社会は衰退していく。

己の立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。(論語)

自分がある地位に立ちたいと思えば、まず人をその地位に立ててやり、自分が到達したい境地があれば、まず人をその境地に到達させる」 

自ら忍んで人に譲れと言っているように聞こえるが、
その真意はそんな卑屈なものではなく、
リーダー足る者、他者を生かす事を考えよ。
そのような心掛けで行うことの大切さを説いたものである。

これは果たして絶望か

西洋の道徳も、東洋の道徳も、
どの宗教も、説いている事の根本は同じである。

だからこそ、
政治でも法律でも、軍事でも、あらゆる分野で
仁義道徳を一致させることは可能ではないか。

目新なるを要す

時と共に社会は進歩するはずなのだが、
長い間、風習が続いた古い国は、
因襲にとらわれ、形式主義に陥りがちだ。

形式主義に陥ると、考える力が乏しくなり、
精神力が弱体化、時代を変えるエネルギーが枯渇する。

「六国を滅ぼす者、六国なり、秦にあらざるなり」という言葉がある通り、
幕府を倒したのは外ならぬ、
形式主義にとらわれた、幕府自身だったのではないか。

宗教も形式主義に陥りやすく、流儀や流派に別れると、
逆に迷信が盛んになる。

利殖と道徳は一致しないという考えがあるが、
これは明治になるまで、士農工商の上位である武士は、お金儲けには関係なく、お金儲けは身分の低い人たちがやるべきことだとされてきた因襲の影響だ。
この考えがあったので、経済活動をする商人は卑しめられ、卑屈な精神に流れてしまい、逆に儲け主義一点張りになってしまった。

この因襲的考えに囚われたため、我が国の経済は何百年も遅れたのである。

孟子は利殖(ビジネス)と仁義道徳とは一致するものだと述べている。

修験者の失敗

誰もがわかる道理ほど、強いものはない。

迷信にとらわれる人々に大切なのは、
筋道を立てて、道理をもって伝えること。
冷静に考えられるようになると、迷信は消滅し、真理が見えてくる。

真正なる文明

文明と野蛮とは反対語だが、その線引きは非常に難しい。
ある文明は、更に進んだ文明からみると野蛮であるが、
その文明は、それより遅れている国からみると、文明国である。

それでは文明国とは一体何か。

まず、一都市を対象とするのではなく、国全体を対象とする。
つまり、首都が幾ら素晴らしくてもだめで、
津々浦々きちんと整備されていなければならない。
法律・教育制度が整っている上に、
その国を維持して運営力がある国こそが、文明国である。

運営力には、軍事力・治安維持、地方自治力も入るが、
全ての機能をバランスよく調和し、
相関性をもって運営できる人材こそが、
運営力の源であり、そのような人材がいない限り、
その国は文明国とは言えない。

そのため、表面的に整備され、一見文明国に見えても、
国のシステムをバランスよくコントロールし、
そのシステムを維持する財政・産業を生み出すことが出来る人材こそが、
文明国にとって最も大切なものである。

故に、見かけが文明国であっても、実力が貧弱な国が多いのだ。

歴史を振り返ってみても、
多くの場合、形式(見かけ)が先に整い、
それを経済的にも維持できる実力ある人間は、
後から登場することが多い。

明治時代をみても、様々な施設が最初に出来て、
法律や国の仕組みを西洋から学び、国体という制度は完備したが、
それを維持する経済力、稼ぐ力は欠如していた。

確かに諸外国と肩を並べ、
国の体裁を整えることは大事であり、
それがない限り国際社会から認められず、経済的発展も難しい。
国の体面を保つため、将来の繁栄を図るためには、軍事力も必要だろう。

それには、様々な国費が必要であり、
入るお金が少なく、出費ばかりが増大すると、
いきつく所は文明貧弱国である。

文明が貧弱な国に陥ると、
折角整えてきた社会整備や教育は機能しなくなり、
野蛮な民族国家になってしまう。

我が国は体裁を整えることを重視する傾向があり、
経済や道理の根本を無視して省みないところがある。

政治も軍部もバランスを失わないよう、こころして行わなければならない。

発展の一大要素

明治時代はなりふり構わず新しいものを取り入れ、
躍進した時代であるが、
大正時代に入ると、守成の時代だと言い、守りに入った。
しかし、我が国は国土が狭く人口が増えていく事を考えたら、
そんな引込み思案であってはならず、
海外に販路を広げることは必要不可欠だと考える。

そうなると、様々な国と軋轢が生じてくるが、
それに対して、心して行わねばならない。

海外進出で大切なことは、嫌われる民族にならないように心がけることだ。

それには、自分たちのやり方を常に反省し、
理念を果たす忍耐をもって事にあたること。

それこそが、我が国発展の大要素である。

廓清の急務なる所以

明治維新で人々の前に、世界に市場が広がった。
政府が牛耳っていた規制もなくなり、
商人からみたら、新天地が開けたのであるが、
全てにおいて個人が行わねばならなくなったので、
そのチャンスを生かすためには、
相当な教育がなければ出来ない事になった。

そのため、教育の主眼が、貿易の手続きの仕方や、地理や経理など、
商業を主とした実業教育に移り、
道徳教育は一切忘れられてしまっている。

道徳は軽視されてきたため、にわか成金が出現、
彼らが成功者となり世の中を刺激したので、
益々道徳教育は旧世紀の遺物のような扱いになってしまった。

文明開化により、国は安定したかというと、
不正が増え、混乱し、社会は新たな混乱に巻き込まれた。

故に、私は、
廓清(悪いものをすっかり取り除くこと)の必要性を感じている。

それでは、何をどう取り除けばよいのだろうか。

下手にやってしまうと、逆に活気を失わせてしまう。

道徳的道義に立った人だけがビジネスをして、
それ以外の人の行動範囲を狭めればよいと言うのでもなく、
そうすると、国の経済は止まってしまう。

経済活動を止めないように行うには、
経済活動を行っている人に、
道徳道理を伝えることが大切である。

道徳と経済は矛盾しておらず、
一致しているのだということを、理解してもらうことで、
正しい経済活動が出来るものだと信じている。

子貢曰く、貧しくしてへつらうこと無く、富て驕ること無きは、何如。子曰く、可なり。未だ貧しくして楽しみ、礼を好む者に若ざるなり。

子貢曰く、詩に云う、「切するがごとく、磋するがごとく、琢するがごとく、磨するがごとし」と。其れ斯の謂いうか。子曰く、賜や、始めて与に詩を言いうべきのみ。諸に往を告げて、来を知る者なり。
子貢「先生、貧乏でも人にへつらわない、豊かで金持ちでも、自慢しない人物こそ、立派な人物なのでしょうか」

孔子「まぁ良い解釈だな。だが貧富を超越し、へつらうとか、自慢するとかいう心までも超越し、貧しくても心豊かに楽しみ、お金持ちでもごく自然に礼を愛することが出来る人物には及ばないね」

子貢「なるほど上には上があるものですね。詩経に、切るごとく、磋するごとく、琢つごとく、磨くがごとく、たゆみなく、道にはげまん。とありますが、そういうことをいったものでしょうか」

孔子「おまえはいい事いうねぇ。一つのことがわかると、すぐ次のことを理解できる力がある弟子と一緒に論じるのは楽しいよ。」

常に道徳心を持って、切磋琢磨する姿勢こそ大切ではないだろうか。


山脇史端
参照 論語と算盤 (角川ソフィア文庫)/渋沢栄一

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