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論語と算盤 要約⑩ 成敗と運命

それただ忠恕のみ

   仕事に楽しみを見出し、趣味感覚で行うことができれば、どんなに忙しくても疲れや面倒臭さを感じることもなく、無限の可能性や面白さを引き出し、事業も発展していく。

 楽しみを見出せないと、仕事は労働になり、倦怠感を感じ、不平不満がつのり、最終的にはその仕事を投げ出してしまうだろう。

 楽しみを見い出せる仕事とめぐりあうには、運、不運も確かにあるが、考えてみると、誰しも人生の1割・2割の頻度で、幸運な事は起こる。

 そのチャンスを努力して開拓しない限り、運を幸運へと発展させることは難しい。それには各々が自分の選んだ仕事に楽しみを見出し、内容の充実を図ることが大切だ。

 救済事業は、事業の中で最も難しい。私が行っている事業所には、1500~1600名の救済者がいるが、病気やどうしようもない理由でここにいる者もいるが、多くは自業自得の結果、収容されている者である。
彼らに必要なのは、同情ではなく、「まごころ・おもいやり」の心、忠恕である。これは全ての仕事において言えることでもあり、幸運のベースにあるのは、忠恕の精神ではないかと私は思う。

失敗らしき成功

 立派な業績や財産を築いた者が、果たして成功者なのだろうか。

 中国で聖賢として尊敬を集めている人達、堯瞬禹湯、文武、周公などは、生前に素晴らしき業績をあげ、尊敬を受けながら亡くなっているので、今でいうところの成功者かもしれない。

 それに比べ孔子は、生前は貧しく認められなかった。しかし、今に至るまで、多くの人達から尊敬されている。

 楠木正成は生前は失敗者であり、足利尊氏は成功者であるが、今日において崇拝されているのは正成である。

 菅原道真は、当時の成功者であった藤原時平に追い立てられ、左遷され失意の内に没したが、天満宮として未だに健在だ。

 このように考えると、世の中でいう成功が必ずしも成功ではなく、失敗も必ずしも失敗でないように見える。

 華やかな業績をあげて世間に認められようと、マスコミを活用して一気に世間の注目を浴びたにも関わらず、一瞬の気の緩みで世間のひんしゅくを買ったり、投資に失敗するなど、苦しい経験をすることもあるが、これは必ずしも失敗とはその時点では言えない。

 一時は失敗のように見えても、その後の努力や経験は無駄にならない。
10年、20年または数十年経過すれば、その功を認めらえることもある。

 それよりも、口先ばかりで大きな事を言い、実践しない者の方が、人生の根本に触れるような経験をすることなく、終わってしまうのだ。

 特に、道徳教育や学問などの精神的事業は、渾身の努力をして尽くせば、失敗することなどありえないのだ。

人事を尽くして天命を待て

 「これは天命だ」というが、どうやら天命とは私たちが勝手に決めているようで、天は一切関知していないのではないか。

 そのため、天命を畏れて何もしないのは愚行であり、大自然の大きな力の存在を認めながら、恭・敬・信をもって、人力を尽くせば、四季が順当に流れるごとく、順当に当たり前のように天命も流れてくる。

 天地と人間社会の間の因果応報も、偶然の出来事ではない。
必ず、理由があって行われるものなので、人格ある霊的動物として、恭・敬・信をもって、天命を拝することが大切かと考える。

湖畔の感慨

 誠実で忠義を尽くした宋時代末期の武将、岳飛と、賄賂を貰って岳飛を陥れた奏檜の墓標は数歩を隔てて相対している。そのため、多くの観光客が、岳飛の碑に涙し、奏檜の碑には放尿して帰るそうだ。

 時間を経ても、人の生きざまは、人々の心に深くしみつくものだ。我が国の、楠木正成と足利尊氏、菅原道真と藤原時平と同じような話ではないか。

順逆の二境はいずれより来るか

 ここに二人の人物がいる。一人は名門出でもなく、引き立ててくれる人物がいるわけではないが、健康で勉強家で仕事が出来る人物だ。その人物は勤勉に働き、出世し、名誉と富を手に入れた。このような人物を、人々は順境の人というが、これは、順境でも逆境でもなく、その人自らの力でそういう境遇を作り出したに過ぎない。

 もう一人の人物は、何をやっても愚鈍で、不勉強で、仕事ができない。注意されると不平不満を募らせ、仕事に忠実さを欠き、家庭でも疎んじられ自暴自棄になった挙句、悪友に誘惑されて正道から外れてしまった。その人物を世間は逆境の人というが、そうではない。自ら招いた境遇に過ぎない。

 この世の中には、順境も逆境もない。

  優れた知能があり、努力して学ぶ人物には、逆境などありえない。逆境がなければ、順境と言う言葉も消滅する。

 ただ自ら進んで逆境をつくる人がいるため、順境と言う言葉が生まれたのだ。日頃の注意を怠ることで風邪をひくのと同じように、逆境も日頃の心がけで自ら招くものである。

 それでは本当に逆境の人などいないのだろうか。
知能も才能もあり、勤勉で誠実で、何一つ欠点がないような人でも、政治や実業界の世界では思った通りのことができず失敗してしまう者がいる。こればかりは逆境ではないかと思うのである。

細心にして大胆になれ

 世の中が便利で秩序が整うに従い、逆に新しい活動を行うことが難しくなり、時代は保守に傾くようである。

 保守化すると、些細な事でも大事に考え、動きが悪くなる。しかし世界は日々動いており、競争は激化、我が国は長い間鎖国をしていたため、どうしても保守になりやすい。
そのため、外国勢の倍の努力をしない限り、後れをとってしまうのだ。何事も大事に考え、失敗を恐れて何をすべきか迷うようでは、国は衰えていくだろう。

 とにもかくにも我が国は、エネルギー溢れる人材を育成せねばならず、それには独立独歩で歩める人材を育成することが大切だ。

 何でも人頼りにする人材は、いつまでたっても自信が持てない。
細かいことにこだわり、堅苦しく考える人材は、前進する勇気がない。

 独立独歩の社会気風を創るには、政府の干渉は最小限とし、民力を伸ばして事業を発展させる社会風土をつくることが大切だ。政府がやたら仕切ろうとして、法律規則を増発し、その規定内で活動させようとする限り、新しい産業は生まれにくく、世界の流れについていくことなどできないのではないか。

成敗は身に残る糟粕

 そもそも成功、失敗というが、人にはそれぞれ役割があり、人生に成功・失敗という考え方自体が誤りではないか。

 悪運にのって成功したとか、善人なのに失敗したともいうが、成功失敗の概念そのものが違うかもしれない。

 世の中には成功したくても失敗した例はいくらでもある。
知恵が伴って初めて運命は開拓できる。
そのため、いかに善人であっても、智力が乏しかったらいざという時の判断が的確にできず、成功は遠いのいてしまうのだ。

 もし秀吉が80歳まで生き、家康が60歳で死去していたらどうなっていただろうか。天下は家康の手に渡らず、豊臣家にあったかもしれないが、家康のように智力のあるブレーンに恵まれなかった秀吉が、徳川のような300年近くの泰平な世の中を作りだせたとは思えない。

 家康には智力があったからこそ、運を引き寄せられたのではないか。

 故に、運が悪いとは言わず、自らの智力が足らずと思い、勉強をし続ければ、いつかは再び好運に恵まれ、成功を手にできる。

 誠実に学び、努力するものに、天は自然に運命を開拓するように仕向けてくれるのだ。

 太陽が昇ると月が出てくる。月が沈むと太陽が出てくる。
この宇宙の道理は不変である。
それと同じく、成功の裏には失敗があり、失敗は成功に導くための道に過ぎない。

 この不変の道理を知るものは栄えていき、この道理に逆らおうとすると滅んでいく。このシンプルで明快な理論こそ、価値ある生涯を送る理論であり、一時の成功や失敗に振り回されるようなことではあってはならないと尾もっている。

澁澤栄一

要約 山脇史端

参照 論語と算盤 (角川ソフィア文庫)/渋沢栄一

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