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論語と算盤 要約⑧ 実業と士道

武士道は即ち実業道なり

 武士道とは何か。
正義・廉直(心が清らかで私欲がなく、正直なこと)・義侠(正義を重んじて、弱い者を助けること)・敢為(物事を困難に屈しないでやり通すこと)・礼譲(礼儀正しく謙譲する姿勢)などの美風を加味した、複雑化した道徳である。

 この崇高な道徳が、武家社会にしか用いられなかったことは、大変残念なことである。

 利益を追求する商業活動は、この崇高なる志の武士がやるべきではないとされ、武士は生産活動から除外され、「武士は喰わねど高楊枝」という風潮が尊重されてきたという事は、甚だ遺憾なことである。

 「武士道と功利活動は相反するもの」「仁と富は併用できない」と捉えられたことは、歴史的な誤解だと思う。

子曰く、「富と貴(たっと)きは、是(こ)れ人の欲する所なり。其の道を以て之を得ざれば、処らざるなり。貧しきと賤(いや)しきとは、是れ人の悪む所なり。其の道を以て之を得ざれば、去らざるなり。

「金銭と高い身分は、誰でも欲しがるものである。しかしそれにふさわしい方法で得たのでなければ、地位も財産も長続きしない。
貧困と地位の低さも、道を誤りその状態に陥ったのでなければ、それを脱れようとあせる必要はない。」論語詳解071里仁篇第四

 賢い人物が、貧しく地位が低い状態にいるままであるというのは、武士が戦場に臨んで、敵に背中を見せているのと同じこと。
つまり、戦っていないだけのことだ。

  「高い地位、利益を得ても、武士道の精神がない限り、継続が難しい」
つまり、武士が武士道の道を歩まない限り、評価されないというものと同じ意味ではないか。

 豊かさや地位を永続させるには、聖賢に匹敵する正しい道を志さない限り、人はついてこない。
だが武家社会では武士道を上位、商売を下位とし、商業者は道義道徳を軽視し功利を追求してきたため、どうしても商業道徳が育たなかった。

 個人間の約束を尊重し、一度約束した以上は、必ずこれを履行する。
約束に違反しないというのは、武士道の正義廉直の道に他ならない。つまり、武士道とは、武士だけが行うものではなく、文明国のビジネスマンが心して行う道である。

 それにも関わらず、我が国のビジネスマンは、武士道は武士だけが遵守するものだという観念から脱せず、功利主義に陥る傾向があり嘆かわしい。

 そのため欧米人も日本人に絶対的信用が持てず、それが我が国の多大なる損失に繋がっている。

 日本人は大和魂をもって、常に武士道に立脚していなければならない。その上で貿易を行えば、世界に向け果敢に発信できるのではないだろうか。

文明人の貧戻(たんれい)

 独り貧戻なれば、一国乱を作す
一人でも心貧しい人が居れば国中が乱れてしまう(大学章句)

 「百年経つと地図の色が変わる」と歴史家はいう。
たった1名の人間が未来を変えるため、将来何が起きるかわからない。

 不透明な未来への準備と実行の責任は、未来の当事者にある。
未来の当事者とは、現在の青年たちだ。故に青年たちは時局を捉える力を身につける必要がある。

 自国の商工業を発展させるには、どのような大国であれ、海外を視野に入れなければならない。今回のドイツの政変が、遠い国の問題と思いきや、我々の生活から、薬品や染料など化学品が欠乏した事実をみると、如何に世界が繋がっていたかが良くわかる。

 国を富ませるには、動乱をチャンスにしなければならない。

 一時の困難は耐え難いものであっても、これをチャンスとすべく勇気を持つことが大切だ。だが、日本人は目の前の不景気に萎縮してしまう傾向があり、それを「無気力の行為」という。

 何をチャンスとすべきかは、充分に研究し、有益な実行を行う必要があるそして、今、私が注目しているのは中国市場だ。
我が国は歴史的にも人種的にも、この国と深い関係があるため、欧米諸国より有利である。このことを青年諸君は忘れずに力を入れていってもらいたい。

相愛忠恕の道をもって交わるべし

 歴史的背景を考えても、日中関係は切っても切れない関係だ。

 そのため、忠恕の道(相手の立場に立って物事を捉える思いやりの心)に立脚しより良い関係を築くことが大切だ。

  自分の国だけの利益を考えるのではなく、相手の立場に立ち、どうすれば利することが出来るのか、その視点から捉えることが大切なのだ。
中国の豊かな資源を開拓し世界に展開する際にも、両国民の共同出資による合弁事業にすべきであり、自国のみに有利な展開であってはならない。

 中国史の視点からみる中国は、大変偉大なる国である。
3500年前の殷周 古代王朝時代は、世界で最も発達し栄華を窮めた時代であった。その後、様々な王朝が興り、今に至るが、万里の長城、煬帝の大運河をみても、その規模の大きさは眼を見張るものである。

 その偉大なる中国に憧憬し、実際に行ってみると、失望してしまう人が多いと聞く。なぜなら、中国では上流・下層社会が明確で、その間の中間層が存在しない。そのため国全体に個人主義・利己主義が横行し、国家という観念が薄らいでしまうようだ。それこそが中国の欠点なのだと私は思う。

天然の抵抗を征服せよ

 文明の進歩に伴い、交通網が発達し、世界の距離が短くなったことに驚きを感じる。
ついこの間まで、国民の概念には外国の存在などなく、日本以外の国といえば、唐天竺、中国とインドしか頭に浮かばず、五大陸の存在など、想像すらできなかった。

 文明の進歩、交通機関の発達により、地球は小さくなった。
若い頃ヨーロッパに行った時、パリまで行くのに55日かかったが、今やスエズ運河も開通し、シベリア鉄道も開通したので、考えられないほど近くなっている。
「命長ければ恥多し」という諺があるが、長生きできたお蔭でこのような時代に遭遇出来るとはきわめて幸せなことである。

模倣時代に別れよ

我が国には、外国品偏重という悪き風潮がある。

舶来品といえば全て素晴らしいと感じてしまい、国産品を卑下してしまう。「外国のものだからこの石鹸は素晴らしい」
「舶来品のウイスキーを飲まないと時代遅れになってしまう」と、
国産品より舶来品を価値が高いと思い込む風潮があるようだ。

 これは、独立国の国民としては甚だ意気地のない話であり、模倣時代から卒業し、自発自得の時代 国産奨励に入らねばならない。

 勿論これは極端な消極主義、排外主義ではなく、日本の良いものを見直し、日本人に適する物を作ること。そうれば、日本人に適さないものをわざわざ外国から買い入れる間違いも起こらない。

 それには国産品の調査研究、共進会、勉強会の開催、どう商品をみせたらよいのか、デザインや広報、輸出奨励策を国家主導で行うことも大切であるが、保護をしすぎて、干渉束縛にならないよう留意することが大切だ。
 それにより、日本の商品が認められたことを善い事に、品質の悪いものを製造輸出し、国の信用力を失うようなことは絶対に起きてはならないことである。

ここにも能率増進法あり

 能率の良い仕事をすれば、多くの人を使わなくても、多くの仕事ができるため、時間を無駄にすることがない。

 時間を無駄にするとは、職人の手が空いているのと同じこと。人を使う場合、そのことに留意し、相手の時間を無駄にしないように心がけることで能率は上昇する。

果たして誰の責任ぞ

 明治以降、文化進歩に反比例して、商業道徳は退廃した。
その理由の一つとして、外国の風習ばかりをまね、祖先から続いてきた道徳の観念を省みなくなっていったことが挙げられる。

 例えば西洋人は、個人の約束を最も尊重する。

 しかし日本古来の道徳は、「父召せば、諾する無し。君命じて召せば、駕するを俟たず。」という孟子の教えである。

つまり、個人の約束より、父親や君主との約束の方が優先される。

 日本古来の教えに準じれば、忠君愛国という孟子の教えには一致しているが、国際的にみると個人間の約束を尊重しないと誹謗を受ける。

 その国特有の習慣性と相手の国が重んじるものに差異があり、それをきちんと見極めずに、一概に日本人の契約概念は不確実だ、商業道徳に反しているといっても、無理というより他にない。

 日本の商業道徳観念は薄くなり、自己本位に陥る傾向は強まっているということを、我々は常に意識して、自戒することが大切だ。

功利学の弊を芟除(せんじょ)すべし

 大和魂・武士道を誇りとする我が国だが、日本のビジネスマンが、道義的観念が乏しいというのは非常に残念なことである。

その原因の一つに、教育の弊害が挙げられる。朱子学的儒教教育には、このような言葉がある。

「子曰く、民は之に由らしむべく、之を知らしむべからず。」
大衆に、政治に対する信頼をかちえることはできるが、そのひとりひとりに政治の内容を知ってもらうことは難しい。

 朱子学を説いた朱熹も、その朱子学を幕府の元で広めた林家も、学者であり、道徳の実践者ではなかった。そのため、その説を説く者と、実践する者が同一でなく広められた。
そのため、民を治める者は仁義道徳を学問として学び、被治者(被支配者)は、彼らの命令に従って、何も考えずに与えられた役割さえ行えばよいという悪き風潮が影響し、お上の言う事さえ守ればよいといった卑屈な気持ちを増長させ、道徳を守る観念が育ったなかったのではないだろうか。

 そうした土壌に、明治維新が興り、急激に欧米の文化が輸入され、いきなり物質文明が導入された為、商業において功利重視の考え方が更に強まってしまった。

 欧米でも、品性修養を求めた倫理学・道徳学は盛んであるが、宗教を土台としているため、中々理解しがたい所がある。そのため、肝心の道徳的観念は伝承されず、利益を増し産業を興すために大切な科学的知識、利益追求の知識という、わかりやすい部分のみが、導入されてしまった。

「奪わずんばあかず」という孟子の言葉がある。

努力なく結果だけ求めるのなら、人のものを奪いつくさない限り満足感を得られないという意味である。

 貧しい家に生まれ、苦労しながら立身出世し、社会の中枢まで進み、人々の信頼を勝ち得て成功を持続させる者に、道徳仁義心がない者がいたであろうか。

 商売を始めると、人間はとかく道徳を忘れて利益追求型になりやすい。

 銀行家が別会社を興し、わざと株式の配当を多くして会社を破産させ、株主に損益を与えたにも関わらず、自分は大いなる利益を蓄えているケース、 主人を富ませるために尽力、それを主人の業績とし、ナンバー2の立場として忠義を尽くす人間を、世間は素晴らしい人物だと評するが、裏を見ると、事業家より遥かに蓄えており、名を捨て得を選んだという者などが横行しているのが、今の世の中だ。 

 この商業道徳の頽廃を憂いて「どうにかしよう」という高志の人物も時々でてくるが、何しろ260年も続いた徳川時代の中で、商業を道徳と切り離してきた弊害は大きく、これは我々日本人に染み付いた遺伝的弊習と言ってもよいだろう。

 しかしこのまま放置しておけば、国として世界に影響が生じる心配があるため、商業道徳を我が国の経済界の根幹として堅固なものにすることこそ、最優先すべき問題ではないかと、私は思う。

かくのごとき誤解あり

 人間社会に競争はつきものだ。
「徳の高い・低い」という事自体も比較により生じているため、これも一つの競争である。

 これなどは穏やかな競争であるが、名声や財が絡むと競争心理も激化し、挙句の果てには「勝つという目的のためには手段を択ばず」というようになってしまう。

古い言葉に、「富をなせば仁ならず」「すべての商売は罪悪なり」という言葉があり、孟子ですら「富をなせば仁ならず、仁をなせば富まず」と述べているが、これこそ、解釈の誤解ではないか。

 富と仁(道徳)は一致しないという誤解は、いつ生じたのか。

 徳川家康は武力でもって国を治めたが、その後の国家平定に用いたのが儒教である。武士たるもの、武力ではなく、修身・斉家・治国・平天下という儒教の思想を遵奉せよというのが幕府の方針であった。

 そのため、武士は人を治めるために仁義孝悌忠心を規範とし、社会の消費者であり生産活動から切り離した。

「人を治める者は、人に養われるものなり。ゆえに人の食を喰むものは人のことに死し、人の楽しみを楽しむ者は人の憂いに憂う」(孟子)

 この考えこそ武士道の根幹と考えられ、物を生産したり、利益を得る行為は、仁義道徳に関係ない低い身分の者が行うのだという考え方が、永い間続いたため、どうしてもこの誤解的風潮から未だに抜けきれないでいる。

 このような考え方は、当初は武士を武力から遠ざけるという効果はあったが、「武士は食わねど高楊枝」という風潮が広まると、食べるために商業を行う行為を卑屈とした。この考え方が、逆に彼らを追いつめ、精神を頽廃させ、何が真実なのか分からない世の中になってしまったのである。

要約 by 山脇史端

参照 論語と算盤 (角川ソフィア文庫)/渋沢栄一

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