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論語と算盤 要約①処世と信条

論語と算盤は甚だしく遠くして甚だしく近いもの

論語と算盤、一見、相反するものに見える。

だがもしあなたが入社するとしたら、
算盤だけのビジネス  (利益追求型経済ビジネス)、
算盤 with 論語ビジネス(道徳的経済ビジネス)、
どちらの会社を選ぶだろうか。

儒教の道理と事実と利益は、
必ず一致するものであると、
澁澤は語っている。

何故かというと、

富とは一過性のものでなく、
持続可能なものでなければ、
一発屋の富で終わってしまう。

それは、本当の富とはいえないものだ。

本当の富は、人の道理、道徳にそったものでない限り、
持続しない。

なぜかというと…

商売とは、人間が豊かになるための経済活動であり、
社会とは人間社会であり、
つまり、人と人の繋がりがあって始めて成り立つものであるからだ。

富を成す根源に、人と人との繋がり、
「仁義道徳」がない限り、
その活動には持続性が生じない。

そして、国の富みは産業を興ない限り、成されない。
つまり、
その産業には、道徳倫理がないと、継続できないのだ。

論語と算盤は甚だしく遠く見えるが、
実は近いもの。

その意味を分かって戴けただろうか。

士魂商才

菅原道真は「和魂漢才」を説いた。
日本人特有の大和魂を根底にしながら、
当時の先進国である、漢国(古代中国)の学問を習得して、
知識や技術や哲学的考え方を取り入れ、
才覚を磨くことが、「和魂漢才」だ。

澁澤はそれに習い、「士魂商才」を説いた。
侍魂をもって、ビジネスせよ。

武士道ビジネス

崇高な武士道精神だけでは、食べていけなくなり、
起きたのが明治維新だ。

それまで士農工商の社会制度の中にいた武士にとって、
士×商という 
上下の組み合わせ概念にはさぞかし戸惑っただろう。
それまでは、武士が商売するなど、してはいけない時代だった。
それこそが封建時代の身分制度。

その制度が崩さった明治維新。
澁澤は、武士たちに武士道ビジネスの素晴らしさを説いたのだ。

その精神は、プラスの面では富国強兵、戦後復興に役立ち、
マイナス面では、太平洋戦争に用いられた。

武士道ビジネスは、今まで私たちが、私たちの先輩達が
模範としてきた
ビジネスマンのあり方かもしれない。

故に今一度、澁澤の残した「論語と算盤」を学び、
新しい時代のあり方を考え直すことが必要だろう。

澁澤はこの項でこのように述べている。

●儒教(論語)には、商売をしてはいけないとは一言も書いていない。

●論語には、ビジネスセンスを養う言葉が沢山書かれている。

●不道徳な商売、欺瞞・軽佻なビジネス、小賢しさ・小利口さで行うビジネスは、本当のビジネスとは言えない。

●道徳の裏付けがなければ、企業活動は永続出来ない。

●徳川家康の言葉を集めた「神君遺訓」の多くが論語の出典である。故に200年以上徳川幕府は継続できたのではないか。

例:「己を責て人を責むるな。」
「及ばざるは過ぎたるより勝れり、堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。」
「不自由を常と思えば不足なし、心に望み起こらば、困窮したる時を思い出すべし。」
「勝つことばかりを知りて負くることを知らざれば、害、その身に至る。」

●欧米から入ってきたビジネス理論は新しいというが、既に東洋では数千年前から言っていることの言いまわしに過ぎない。

確かに、今までアメリカのビジネス理論が闊歩してきたが、
その中身のほとんどが東洋思想で言われてきたことである。
東洋古典には、様々な事象とそのソリューション、
様々なケーススタディが記されている。

そして、私はこれからは、
士魂商才ではなく、和魂商才を捉えるべきだと思う。
道真公の説いた和魂とは、武士道以前の和魂、
聖徳太子の説いた国の形だ。今年は聖徳太子生誕1400年の節目。
再度日本の和魂を学び直す必要があるかもしれない。

天は人を罰せず

私たちは天命を帯びて、社会活動を行っている。
草木には草木の天命があり、鳥獣には鳥獣の天命がある。
草木が鳥獣になろうとして、なれるものではない。

同族経営会社の後継者に、起業家の天命がなければ、
継がせるわけにはいかない。

古の聖人をみても、堯も舜も、息子たちに継がせていないのだ。
だからこそ、聖人の評価を受けたのかもしれない。

天命に逆らって、
他人の真似をしたり、
自分には無理なやり方や、不自然な行動をすると、
必ず悪い結果になる。

「天罰が下る」という言葉がある。

天罰はどのようにして下るのか。

自分の分を超えたことを行ったり、
無理に他人の真似をするなどして、
利益を得たとしても、

それは不自然な訳なので、
周囲も不自然に感じ、本人も違和感を感じ…
すると、どこかに綻びが生じ、
自然といつの間にか上手くいかなくなったり、

例え上手くやっていても、
ストレスが蓄積され、
苦痛を感じるようになる。

それこそが、天罰というものなのだ。

人物の観察法

佐藤一斎は、
「初見の時に相すれば人多く違わじ」
対面の時の印象こそが、人を一番的確に捉えると言った。
孟子は、人の眼をみて、その心を捉えよと言った。

人物判断は、初対面の印象が、最も正確な観察法ではある。

何度も会っていると、廻りの人の評価が耳に入ったり、
事情に囚われたりして、考えすぎてしまい、
本質が見えなくなってしまう。

論語には人を真に判断する方法として、次の言葉がある。

子曰く、其の以する所を視、其の由よる所を観、其の安すんずる所を察っすれば、人焉んぞ廋さんや、人焉んぞ廋さんや。(為政第二 10)

人物を判断する、3つのみる「視・観・察」

視る… 外観を視る・姿形・行動・行為
観る… 行為の動機になる精神
察る… 何をもって満足するか。何に満足して暮らしているのか。

立派な行動をしても、
その動機になるものが卑しければ、
それは適した人物とは言えない。

社会的大義ある立派な志を抱いていても、
小賢しいやり方をしたり、
人を不快にさせる行動では、
それは適した人物とは言えない。

立派な身なりであり、社会的大義を抱き、
道徳のある行動を行う人物であっても、
酒や博打がないと満足できない人物であったら、
その動機や行動の結果として、
私財を蓄えることに喜びを感じる人、
それが目的になってしまう人は、
それは適した人物とは言えない。

この3つのバランスで整っているかをみることが、
人物観察法の極意である。

論語は万人共通の実用的教訓

論語は決して難しいものではなく、
様々な人に役立つ学問である。

しかし、学者が難しくしてしまい、
教養がない人にはわからないものだと思われてきたが、
これは全くの間違いである。

孔子は案外さばけた人で、商人でも農民でも、
誰にでも気軽に会って教えてくれる。
だからこそ、多くの人にもっと気軽に論語を学んで欲しい。

時期を待つの要あり

若い時は、争いを避けずに戦わねばならない!
気長にチャンスを待ってなんかいられない!
と、思ってきたが、

どうも世の中には、どうしようもできない
因果関係というものがあるようで、

ある事が原因で、ある事象が生じている場合、
幾ら頑張ってその状態を変えようと思っても
出来ないことがあるようだ。

そのような場合は、
形成をみながら、
気長に時期の到来を待つという忍耐力も、
大事な心掛けだと感じている。

例えば、一般人が行うと、
直ちに摘発されて大事になることも、
政治家や官僚だと、
ある程度見過ごされてしまうことがある。

立場によって一方には寛大に、
一方には厳粛に罰せられる。

民間人が、国家のために貢献しても、
中々認められないのに、
官にある者は、
ちょっとしたことでも評価され、
恩賞を受けることがある。

不公平なことだが、
一個人が変えようと意見をしても、
変わらぬ大勢である。そんな時は、
不平を言うぐらいにとどめ、争わず、
社会の潮流が変わる時期を待つしかない。

人は平等なるべし

適材適所の人材配置こそが、
リーダーの才覚と言われるが、
これが一番難しい。

個々の能力だけを評して、
適所に置くだけなら簡単なのだが、
それにプラスして、
自己の権勢に役立つ人材や、地盤を強化しようなどと、
私利私欲を絡ませながら選択するから、
大変難しいくなるのである。

どうやら、その能力に優れた者こそが、
政治の世界でも、事業の世界でも、
組織の覇者となることが出来るようである。

そう考えると、
徳川家康ほど、人材配置に秀でた創業者は見当たらない。
要所には、昔から恩顧の信頼できる人材を配置し、
有能な大名には、手も足も出ないシステムを構築して、
社稷を築き上げたのである。

私(澁澤)は、人事権を道具にして、
自家の勢力を築こうとは思っていないので、
ただ素直にシンプルに、個々の能力を基準とし、
適所に適材を置くことをモットーとしている。

しかし、権謀的色彩で行いたい人たちは
私のやり方に、さぞかし不満かもしれない。

そういう人たちは、私から離れて、
自由に大舞台に乗り出し、
好きなようにやって欲しいと本心から思っているし、
それが卑しいものだとも思っていない。

私のモットーは、
人は平等でなければならないということだけなのだから。

争いの可否

人と争うのは良くない。
出来る限り争わないようにすべきだという意見があるが、

争いは決して避けるべきものではない。
生きていくためにも必要なものでもある。

「無敵国外患者、国恒亡」(孟子)

「国家が健全なる発達を遂げるには、商工業においても、
学術技芸においても、外交においても、
つねに外国と争って、これに勝ってみせるという
意気込みを育むことが大切だ。

正しい競争の中でしか、国も個人も発展しない。
「必ず勝ってみせましょう」という気概がない限り、
発展進歩はないのである。

あなたの職場に、
何を聞いても丁寧に教えてくれ、
失敗しても庇ってくれる、親切な先輩と、

何かというと、後輩の揚げ足をとることを生きがいとし、
何か起きたら叱り飛ばし、
完膚なきまで罵る先輩がいたとする。

前者の慈母のような先輩の下で働くと、
例え失敗しても、
先輩がフォローしてくれるとのんきに構え、
事業に対しても、綿密な注意をしない人物になってしまう。

何でも先輩に聴けばいいやと、
向上心や探求心が鈍る人材へと成長してしまう。

後者の厳しいパワハラ先輩の下で働くと、
怠けることを慎み、隙を作らぬように心掛け、
一度失敗すれば大変な事になると、
仕事に対して綿密に行う人物になるだろう。

大丈夫の試金石

乱世の時代に生まれ、
その渦中に捲き込まれた者は不幸者だ。

その逆境を乗り越えるにはどうすればよいのか。

まず自分が置かれている状況が、
人為的逆境なのか、自然的逆境なのかを区別し、
それぞれに対応する策を立てることが大切だ。

人為的逆境なら個人の力でどうにかできるが、
自然現象による逆境対策は、神のみぞ知る世界だが、

「大丈夫の試金石」として捉えてみてはどうだろうか。

自分の力量や価値を把握して、
大丈夫かどうかを判断する試金石だ。

まず最初の心掛けは、焦らずに、その状況を諦めよう。
仕方がないと、開き直る覚悟こそ、大切である。

どうにかしようと焦燥すると、
苦労する割には結果が出ずに、
ついには逆境に疲れ切ってしまい、
状況が変わった時の策を講ずることが出来なくなる。

自然的逆境の際は、次に来るべき運命を待ちながら、
「足るを知りて分を守る」覚悟で、
焦らずに、勉強して待っているのが良い。

一方、人為的逆境の場合は話は違う。
最初にすべきことは、
自省して、その原因を探り改めること。
そして、
自分からこうしたい、
ああしたいと奮闘することである。

世の中のほとんどのことが、
自発的に動く人が動かすもの。
故に、
自らが主体となり頑張るしか、その状況から脱せる方法はない。

だが、現実的には多くの人が
自ら幸運を招きよせようとせずに、
現実に対処することに、いっぱいいっぱいになってしまい、
逆に更なる逆境を招いてしまうようだ。


蟹穴主義が肝要

入公門、鞠躬如也如不容、立不中門、行不覆閾、過位色勃如也、足攫如也、其言似不足者、攝斉升堂鞠躬如也、屏氣似不息者、出降一等、逞顔色怡怡如也、没階趨進翼如也、復其位叔昔如也。『論語』の郷党篇
孔子先生は王宮の門に入られる時には、
身体を鞠のように丸くかがめて、ぎりぎりで門を入っていかれる。
また、君主が立つ中央部には決して立たない。
門の敷居を踏むことも決してない。
中庭に進み、君主がいつも座られる場所に近づくと、
先生の顔色は改まり、
ためらいがちにゆっくりと進む。
まるで何も話せない人のように物静かに。
衣服の裾を持ち上げて宮殿の堂上に昇る時には、
身体を丸くかがめ、息をしていない者のように、ひっそりと静かに動く。
堂上から退いて階段を一段降りると、
顔色に力がみなぎり、のびのびとした様子になられる。
階段を全部降りきると、小走りに進まれて自分の位置に戻られる。
元の位置に戻るときには、厳かでしずしずとした様子になられている。

世の中には、自分の力を過信して、
進むことばかりで、分をわきまえないため、
とんだ間違いを惹き起こす人が多くいる。

蟹は、自分の甲羅の大きさに合わせた穴を掘る。

自分の分を知り、
自分の大きさに合わせた穴を掘り、
自らのいる分を守る。

しかし、そこに安んじるながらも、
進取の気概、チャレンジ精神を忘れてもいけない。

チャレンジをしながらも、分を守る。

孔子の言葉である、
「心の欲する所に従って矩をこえず」とは、
まさにその通り、

自分の分を意識しながら、
チャレンジすることが大切なのだ。

それには、感情的になり、見誤ってははならない。

子曰、關雎、樂而不淫、哀而不傷。論語 八佾第三の二十
子曰わく、關雎(かんしょ)楽しみて淫(いん)せず、哀しみて傷(やぶ)らず。
「夫婦の仲が睦まじく、家庭がよくおさまっていることを詠った關雎(かんしょ)の詩は、恋愛の喜びを表しているが、淫らと言うほどでも無く、哀しみを表しているが悲嘆と言うほどでも無い。」感情が上手くコントロールされた見事な詩だ。

つまり感情に溺れずに、
節度をもって、
感情を上手くコントロールしながら、
分を守りながら挑戦する。その姿勢が大切なのではないだろうか。


得意時代と失意時代

不運の種は、
物事がうまくいっている時に萌すものだ。

誰しも上手くいくと調子に乗る傾向がある。
不運の種は、この時に蒔かれる。

幸運を維持したければ、
物事がうまくいっている時には、気を緩めずに精進し、
上手くいかなくなっても気落ちせずに、
感情をコントロールすることである。

物事が上手くいっている時というのは、
大きな事案が持ち込まれる時期であり、
そうなると、誰もが大きな事案に対して、
如何にすべきかと集中し、
小さな事案や些細な現象に対しては、
「何のこれしきのこと」と軽く見がちであり、
やり過ごしてしまいがちだが、

実はその中に不運の種が蒔かれたりしているものだ。

勿論、箸の上げ下ろしのような
どうでもいいような事までを気にする事はないが、

「小事から大事を醸す」とはそういう事である。

水戸黄門光圀公も
「小なる事は分別せよ、大なる事に驚くべからず」と述べている。

以上、要約(山脇史端)
論語と算盤 (角川ソフィア文庫)/渋沢栄一

論語と算盤を毎朝読んで
これからを考えよう!
大変革せざる得ない今こそ、
ビジネス精神を磨くことが、大切だ!
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