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論語と算盤 要約③ 常識と習慣

常識とは何か

● 物事に対してユニークな方向に走りすぎないこと
● 頑固に陥らないこと
● 善悪の分別があること
● 利害損失の見分けができること
● 言動のバランスがとれていること

常識に必要なのは、

智情意 3つのバランス力

「智」「情」「意」とは、
「人情に通じ、世の中の理を理解し、
臨機応変に対処できる能力

■ 智(智恵)
どんなに学識があっても、良い学校を出ても、
善悪の判別や利害損失の把握が出来ないと、
宝の持ち腐れになってしまう。

利益確保を重視すると、
智恵はそちらの方に生かされてしまい、
仁義道徳から離れてやすい。

折角の学問が埋没してしまい、
「自分だけ修学し、立派な人間になればよい」という傾向に陥いりやすい。

冷静に考えても、
そういう人は、社会に何の貢献もしない。

知恵を悪事に用いるのはよくないが、
世の中に用いなければ、何の意味もない。

「知恵(学問)を利と結びつけるな」
と、制限を与えるとどうなるか。
確かに悪事を働くことは少なくなるが、
同時に消極的になり、
良い事すら行わなくなってしまう。

智は尊いものであるが、
智ばかりでは活動などできない。

■ 情(感情)

智恵や知識だけだと、人の心に届かず、
利を産まない。

どうすれば良いかというと、
情(情愛)を上手く絡めることが大切だ。

知恵のある人は、物事を冷静に捉えながら、
その原因と結果を推測する。そうすることで、
次に何が起こるか見通しがつくようになる。

もしこのような知恵者に情愛がなかったら、
他人の事などお構いなしに、
自分本位でどこまでもやり通すだろう。

思いやりある経済社会を創出するには、
情報や知識だけでなく、情も必要だからだ。

情は、智のバランス剤のようなもので、
人生を豊かにする。

しかし、この「情」は、喜怒哀楽 愛悪欲という
七情で構成されているため、
動きが早く、変わりやすく、
これをコントロールする心がないと、
感情に走りすぎてしまう。

情をコントロールする心こそが「意志」である。

■ 意(意志)

「意志」には強固なものから、柔軟なものがある。

強いか弱いかというと、強い方が良いが、
情や智が伴わないと、単なる頑固者になってしまう。

「意志を強く持て」というが、
意志ばかりが強くても困り者で、社会では通用出来ない。

強固な意志+聡明な知恵+感情のコントロール力

この3つのバランスが大切で、
それをバランスよく所有した人物が、

「常識人」である。

世の中を、会社を、奇矯なものではなく、
誰もが安心して暮らせる、
安定した持続可能なものにしたければ、
常識人を育成することが大切になる。

口は禍福の門なり

口は禍の元でもあり、
幸福の門でもある。

福も災難も、口門から入ってくる。
運命は口の門のコントロール力で、変えることができるのだ。

余計な発言には気を付けなければならないが、
同時に、何かを発信することで、福を呼びよせる。

あなたの言葉が禍になるか、福になるか、
意識しながら話すことが大切だ。

悪んでその美を知れ

私は道徳経済を推奨しているが、
「お前の雇っている従業員には、まったく不道徳な者がいる。
それをどう思っているのか。」と聞かれることもある。

私は経営者として、その姿勢を見せることで、賛同者を集め、
彼らと共に社会の創出を目指しているが、
従業員に「道徳」を強制してはいない。

だが、私の社員が自分の利益のみを目的とした行動をしても、
彼が従事する業務内容が正しく、
世のためになっているものであれば、良いのではないかと思っている。

彼らの業務内容を決めるのは、経営者である私だ。

そのため、経営者である私は、
私の会社に勤めている人達には、是非共、
世の中、日本に役立つ仕事をさせたいと願っている。

日頃からそのように提唱しているので、
実に様々な人からの問い合わせがある。

時には見ず知らずの人からお金を貸してくれと頼まれたり、
お金がないから学費を出してくれと頼まれたり、
新事業に出資してくれと頼まれたり、

それらの希望や要求は、道理のないものが多いが、
どんなに忙しくても全ての問い合わせには対応する。

その中で、道理のある所には力を貸す。
しかし、道理があると思って世話をしたものが、
見込み違いだったことも多々ある。

善人が必ずしも善い事を遂げるとも限らないのと同じように、
悪人が、必ずしも悪い事をするとも限らない。
だから、最初から悪人だとわかりつつも、世話することもあるのだ。

習慣の感染力と伝播力

それでは悪人と善人はどこから来るかというと、
日常の習慣だ。

悪い事を行う習慣を持つ人は、悪人になり、
良い事を行う習慣を持つ人は、善人になり、

その習慣こそが、人格を形成する。
また、人は他人の習慣を模倣したがるので、まわりの人にも感染する。

例えば流行語の伝播がそうだ。
「ハイカラ」「成金」などという言葉は、感染すると、社会一般の言語になるのに時間もかからず、誰も悪いと思わなくなる。

つまり、たった一人が始めた悪い習慣も、
あっという間に世間に感染伝播する。

特に習慣が身に付きやすい青年期は注意する必要がある。

この時期に良い習慣を身につけて、人格を形成せねばならず、それが個性を形成する。

例え青年の時に悪習慣がついても、本人さえ自覚させすれば、老人になっても改められる。

習慣は不用意の間に出来上がるものであるので、意識すれば変えられるのだ。朝寝坊の習慣の人でも、戦争や火事の際には、早起きが出来る。

習慣を当たり前のことや、仕方がないと軽視せずに、
「習慣は変えることが出来る」ということを心することで、自らを善き人へえと変えることが可能になる。

偉き人と完きの人

智情意がバランスよく整った人は常識人であるが、

英雄やカリスマ性は、常識人ではなく、
智情意のバランスが悪い人である。

例えば意志は非常に堅固だが、智恵や知識が足りなかったり、

意志や知恵や知識は揃っていたが、情愛に乏しかったり、

どこかが大きく欠けているところに人間味があり、
そこにカリスマ性が宿る。

そこが、英雄と常識人の大きな違いだ。

完ったき人は常識人であり、
彼らからみたら、英雄や偉人は変態だ。

私は英雄や偉人を輩出したいと思うが、
社会全体の事を考えると、
常識人を多く輩出した方が安定した持続可能な社会になるのではないかと思っている。

特に、現在のように整備された社会では、
どの分野でも、英雄・偉人より、常識人を必要とする。

それでは、英雄・偉人・常識人はどう育成すればよいかというと、
青年期の教育が重要になる。

ユニークさをよしとし、突拍子もない行動も許される青年期は、英雄と常識人の育成期でもある。

多くの青年たちは、常識人になるのに苦痛を感じ、好奇心のままに動くことを望んでいる。

そのため、この時に常識教育をすることで、社会を管理維持する人材を育成する。政治でも実業界でも、健全なる常識人はシステムを維持するのに必要だからだ。

親切らしき不親切

世の中には、冷酷無情で誠意がなく不真面目な行動をするのに、なぜか社会の信用を受けて成功する者がいる一方、真面目で誠意があり、思いやりがあるにも関わらず、落伍者になる者がいる。

この矛盾はなぜ起こるのか。

人物評価とは、その人物の目標や志も大事だが、どう動くかの方が重視され、判断基準になっている。

そのため、いかに忠恕(真心と思いやり)の気持ちであっても、中々動かなかったり、動きが散漫になっていては評価されにくい。

また、「世のため、人のため」といくら思っても、
廻りの人に迷惑をかけるやり方では評価されない。

昔の小学校の本に
「親切のかえって不親切になりし話」というのがあった。

雛が孵化して卵の殻から離れずに困っているのをみて、
親切な子供が殻をむいてやったところ、
かえて死んでしまったという話だ。

志がいかに善良でも、考えのない行動では、世間の信頼を得ることはできない。
その反対に、志が低くても、その行動が機敏で冷静に対処し、人の信頼を得るものであれば、その人は成功する。

このように実社会では、心の善悪より行動や言動の方が眼に見えるため判断しやすく、社会の評価を得やすい。

徳川吉宗公は、老婆を背負っていた親孝行者に褒美を与えた。
それを聞いた者が、褒美欲しさに、他人の老婆を借りて背負って拝顔に出かけた。吉宗公がその者にも褒美を下賜されると、役人が、「かれは褒美が欲しくて老婆を背負っている偽親孝行者です」と将軍に伝えたところが、将軍は、「善行への真似は結構なことだ」と仰った。

志の善悪より、所作(行動や言動)の善悪の方が人の眼につきやすい。
その人が何を心がけているかより、行動や言動を判断して人は相手を信頼する。

それこそが、志が低くても世渡り上手の方が、真面目で思いやりある人より、成功し信頼される理由である。

何をか真才真智という


「真才真智」とは、常識が発展したものであり、
それが備わった人物を、崇高な人格と知恵のある人物という。

常識を発展させるのに大切なことは、
自分の境遇に注意することだ。

孔子でさえ、境遇に自分を適応させることに努力したし、他の者に対しても、その者が置かれた境遇に不適当な言動をした場合、それを諫めた。

ある時、孔子は、
「この道は通れないから、筏に乗って海に浮かぼう。お前一緒にいかないか。」と弟子である子路を誘った。

師匠と一緒に海に浮かぶなんて!なんて素敵な事なんだ!と喜んだ子路を、孔子は諫めた。

なぜか。

孔子が求めていた答えは、
「それは素晴らし考えですが、筏の材料はどうしたら良いでしょうか。」というものだった。

つまり、自分の立場・境遇を分別し、それに合わせた受け答えを期待していた。

細かい事に注意を怠らず、自分の境遇や立場をよく理解し、
修養することこそが大切で、
それが自然に出来るようになれば、
崇高な人格と知恵のある人物になれる。

だが、普通の人はその反対に行くものだ。
チョットでも調子が良いと、すぐに自分の置かれた立場を忘れて分不相応の事を行うし、都合が悪いことが生じると、自分のやるべき事や立場を忘れて思い悩んでしまう。

動機と結果

陽明学では、知行合一・良知良能、
「志に思うこと(動機)が行為(結果)に現れる」というが、

世の中を広く見渡すと、志(動機)が曲がっていても、
気の利いた行動をするので結果を出す人物が多くいる。

中々人の志まで見抜くのは出来ないものである。
どう判断したらよいのだろうか。

その人物の志(動機)と行動の両方を精査した上で、人物像を決めることが確実だと思う。

私は、毎日色々な人の陳情を聞いている。
しかし、それを嫌々行うのと、人に会う事を楽しみとして行うのとでは、同じ事を行うにしても、志(目的)そのものが変わってくる。

そのような視点で行動出来る人物かどうか、
これもまた、人物把握の判断基準になるであろう。

人生は努力にあり

年齢に関係なく、人は学ぼうとする。
努力を忘れてはおしまいであり、それを忘れる国は滅亡する。

しかし、学んだことを、行動に繋げない限り、何の役にも立たない。
学びながら行動するという事は、生涯に渡って継続すべきことである。

学問とは、良い大学に入るため、
学を治めたから成功すると思いがちだが、それは大いなる誤解である。

子路の言葉として次のようなものがある。

民人有り、社稷有り。何ぞ必ずしも書を読みて然る後に学と為さんや、と。孔子曰く、是の故に夫の佞者(ねいじゃ)を悪む、と。
(史記「仲尼弟子列伝)

季氏の事務長官であった子路は、子羔を抜擢して、季氏の所領地の中心地である「費城」の長官としました。子羔は、背丈が五尺に満たず、孔子に学問を習ったのですが出来が悪く、孔子は彼を愚直であると評価していたので、子路に忠告しました。

「彼じゃ無理だよ。」

それに対して、
子路
「治めるべき人民がおり、祭るべき社稷があります。書物を読むだけが学問ではありません。それを用いた現実処理能力のある者を必要としているのです。」

孔子
「これだから、口達者な手合いには勝てぬは…」

智力とは、机上の読書や学習力だけではなく、それを用いた現場処理能力も含めてのものである。

その能力は、毎日の暮らしを通して磨くしかない。

不養生の挙句に病気になって、医者の所に駆け込んで、治してくれというのと同じように、毎日修養を積むことしか、智力を高められる方法はない。

正につき邪に遠ざかるの道

正邪が明瞭なものは、すぐに常識的判断を下せばよいが、
道理を盾にして言葉巧みに言いくるめられると、知らず知らずの内に、ミスリードされることがある。

それを防ぐには、意志の鍛錬は勿論だが、
相手の言葉が常識的理にかなっているか、
自問自答してみることが大切だ。

「すぐに結果は出ないだろうが、将来の為になる」とか、
「最初は利益を得るだろうが、後から上手くいなくなるだろう」というように考える力があれば立ち戻ることが出来るので、道を間違えることはないと思う。

この自問自答する自省心を養う事こそが、
意志の鍛錬である。

しかし、石川五右衛門のように悪い目的で行うと、
違う方向にいくので、
常識に即した目標設定が大切だ。

その常識は、孝悌忠信を基本とする。

儒教の四徳。「孝」は、親孝行。「悌」は、年長者には敬意を表して仕えること。「忠」は、心の誠意。「信」は、ことばの誠意。「忠信」は、真心を尽くし、人をだまさないこと。

それに沿って順序立てて行い、平等に捉え、沈思黙考で決断するが大切だ。

しかし、物事は、沈思黙考など出来る状況でない時に起こるものだ。

急に返答を要求されたり、突然決断をしなければならない時が多々ある。

どんな時でも沈思黙考で決断するには、日頃の鍛錬こそが大切だ。
どんな小さな事も判断できる能力を身に付け、それがその人の習慣になれば、始めて何事にも動じず正しい判断が行える人物になることが出来る。

山脇史端
参照 論語と算盤 (角川ソフィア文庫)/渋沢栄一

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