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私以外私じゃないの : 学校や職業選択というバトルフィールドと自立的自我を獲得する孤独な戦い

※素人の書いている駄文ですので、何卒いろいろご容赦ください。

つい先日、10代のFortnite競技選手の動画を見ていたらゲスの極み乙女(川谷絵音さんのバンド)の「私以外私じゃないの」を使ったオシャレなキル集(ゲーム内で敵を倒すシーンを集めた動画のこと)が上がっていた。川谷絵音さんのような邦楽史に残る不世出の天才が、時が過ぎて純粋に才能で評価されているのが嬉しくてキル集を全部見てしまった。音とキルのリンクが心地良かった。

2016年川谷絵音さんに炎上騒ぎがあったとき、かなりの数の固定ファンがついてはいたものの、老若男女に認識される国民的メジャー街道まであと一歩というところだった。それが日本全国のマスメディアを使った炎上を受けてロケットスタートの機会は失われた。

未だにデザイナーの同僚でも川谷絵音さんの話を出すと嫌悪感を示すような人もいて、マスメディアとSNSの影響力の強さにため息が出る。自分でひとつづつ判断するほど皆んな暇ではないから、炎上時にメディアで流された悪意をそのまま自分の感情として感じてしまうのだろう。ちゃんと曲を聴けば才能の凄さが分かる事でも、そんな時間はない。集団の流す悪意に共感しておいた方が判断時間も少なくて済むのだ。たとえ自分の判断では無いとしても。現代の闇だ。

「サピエンス全史」には、ホモサピエンスが共感性を持ち幻想を共有できるようになった事がネアンデルタール人など他の原始人類と差別化させ、現代の人類にまで進化させたとある。有名人というのは多くの人から共感を引き出せる才能を持っていて、だから人を惹きつけるしファンもつく。アンチもつく。幻想の共有が集団を力強くもし、集団化する事により病理も生まれる。

現代人はリアルとデジタルが複雑に絡み合った世界に生きている。昔は見えなかった有名人の世界もマスメディアやSNSで近くに見える。会った事はないが心理的距離は近く隣人のように感じさせる。距離感を狂わせる。

実のところ有名人が目につくようになるのは、芸能人でもプロゲーマーでもYouTuberでも、その業界で熾烈な戦いを勝ち抜いてピラミッドの頂点グループに入ったからであって、私達とはバトルフィールドが違う。

もちろん、私達は皆どこかのバトルフィールドで戦っている。それはX(元Twitter)上に見える繋がりかもしれないし、学校かもしれないし、野球や塾仲間かもしれない、家庭かもしれない。介護かもしれない。子育てかもしれない。会社かもしれないし、芸能人や寿司職人やデザイナーなどの職業フィールドかもしれない。

誰もが大なり小なり幾重にも重なるバトルフィールドに所属していて、その中で戦っている。戦闘の種類も人生を賭けた競争かもしれないし、恋愛かもしれないし、自我の確立かもしれない。

バトルフィールドには、大まかにパブリックとプライベートがある。(これは適当に素人の私が書いているだけなので、粒度が荒く感覚的で申し訳ないが、アカデミックに考えたい方は社会学の本などお読みになると良いかと。)

パブリック
└収入源となる職業、会社
└クリエイターや芸能人の場合 作品

プライベート
└自己実現、成長、学習、趣味
└恋愛や家族や友人達

川谷絵音さんの時に感じたのは、パブリックに作品と才能によって判断されるべきアーティストが、プライベートの恋愛沙汰で叩かれて職業機会を失っていた事の虚しさ。見るべきところ、そこじゃない感。

音楽業界というバトルフィールドで戦うことに決めた方が、どれだけの人生を注ぎ込み、どれだけ努力してその才能を開花させ、邦楽史を変える作品を創り出していったのか、私たちはその氷山のてっぺんを見せてもらっているだけで、その作品を支えている彼が戦ってきたバトルフィールドを全て知っている訳ではない。

そして、知る必要もない。何故なら私達は他人であって、作品に共鳴しても、彼個人のプライベートや恋愛観・倫理観にまで共鳴する必要はない。法を犯した訳でもない人を社会全体が裁くのも民主主義の国として異常だし、社会全体がたかだか人の恋愛模様を捌こうとしている事の異常さを感じ取れないと共感性で自我を支配しようとしてくる世間様に打ち勝つ事もできない。

すべての人は自分が定めたバトルフィールドで戦う時、常に1人だ。仲間と一緒に戦っていても、各個人が自立していなければ背中を預けて全力を出して戦うことなどできやしない。各個人の孤独な戦いの上に協力プレイは成り立つのだ。

家族が居ても、仲間が居ても、常に私達は独りだ。まったく別の人格であり別の人生を歩み、別の選択をし、己の判断でバトルフィールドを選び取り、そのフィールドで勝つも負けるも、本人の人生であり、誰も代わりになどなれやしない。親だって代わってやれない。その失敗も成功も、その経験自体がその人を織りなす唯一の人生であり、それはその人だけのものだ。誰も口出しできない個人の聖域だ。

子供のうちは誰かに強制されて学校に行かされる事もあるかもしれない。でも自分でバトルフィールドを「選び取り」、そこで戦うことを決めて本気で戦っている時、それが年齢として子供であったとしても、大人も子供も口出しはできない。してはならない。

プロゲーマーなど10代の若いうちから職業を選択している人達に対して、同じゲームをやっているし自分も同じフィールドに居るはずだと思ってしまう人もいるかもしれない。それは勘違いだ。彼らはその職業フィールドで戦うことを「選択した」人達で、彼らがつくり出したコンテンツを消費している側とは隔たりがある。

選択したということは、そこで起きるデメリットも背負う覚悟を決めたという事で、見上げていれば有名人達の享受しているメリットばかりが目につくだろうが、職業として何かを選び取るというのは、そう良い事ばかりではない。辛い事9割、楽しい事1割くらい。どんなに華やかにみえる職業でも仕事にしてしまえば辛い事も多い。

コンテンツ消費側には白鳥が優雅に泳いでいるように見えても水面下では死ぬほど足をバタバタさせていたり…実際はそんなものだ。どんな成果もクリエイティブも一瞬で何の苦労もなく出来上がることはない。

多くの人の共感を得てファンの多い有名人達であっても、見えている彼らの仕事や作品に対して、コンテンツ消費側は「ありがとう」しか言えないのではないかと思う。彼らが見せてくれるとんでもない才能の世界を垣間見せてくれてありがとう。ご飯もぐもぐ食べながらスマホであなた達の仕事の成果を楽しませて頂いてありがとう。

どんな氷山の一角を、どんな思いをしてその成果を見せてくれているのか、私達は知らない。本人しか知らない。私達は成果や作品でだけ接点があるのであって、本人がプライベートを自ら教えてくれた時だけ、そんな苦労をしてたんだなと思えばいいことだ。

自分と他人は生まれた時から違うのだ。同じ集団の中に居るように見えたとしても、誰もあなたと同じじゃない。私もあなたと同じじゃない。皆んな孤独に生まれて孤独に死んでいく。自分の判断は自分だけのもの。その判断の背景になったバトルフィールドでの戦いの成果も自分だけのもの。

誰かのプライベートな人生を他人が裁く事なんてできないし、自分のプライベートを誰かが裁くのも許してはならない。

孤独だから共感できる人を求める。孤独だから群れつどう。非力だから集団になる。原始人類から続いてきた遺伝子に刷り込まれた営みではあるが、現代における自立的な自我があってこそ、一個の人格としての共感や共鳴に意味が生まれる気がしている。

という事でゲスの極み乙女の「私以外私じゃないの」を貼っておく。他にも「両成敗でいいじゃない」とか名作が沢山あるのでオススメ。

https://youtu.be/Ae6gQmhaMn4


※ちなみに誰にも助けを求めるなと言っている訳ではない。誰かに助けを求める判断も本人がするべきであって、勝手な判断で誰かが介入するのを許してはならないということ。バトルする判断もバトルしない判断も本人が考えてするべき。例えば気軽に行われるプライベートへの介入だと「お子さんの計画はいつかしら?」などがある。さてこの深刻な人権侵害についてバトルしましょうか?人生計画のプレゼン資料を用意して理路整然と論破しましょうか?ウフフフフで流しておきましょうか?正面からいくのも、かわすのも判断次第。

※成果や作品に対する好き嫌いはあって良いし、あるべき。ゲスの極み乙女の曲が苦手な人は自らの判断で苦手だなと思えば良いし、好きな人は聞けばいい。作品と関係ないところで好悪が生まれるのはどうなの?というだけの話。

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