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もののけ姫にみる人と自然の共存

 先日もののけ姫を鑑賞したので、物語を追いながら、ちょっとした感想を書く。

 舞台は火薬銃の開発され始めた室町時代にある、深い緑に囲まれた村から始まる。導入として、その村に生きる青年アシタカが強い憎悪によってタタリ神となった猪の村への侵入を食い止め、弓矢で射殺するという動きの激しいアニメーションで描かれた場面があった。

  まず第一に、素晴らしい導入だと感じた。物語のテーマ、すなわち森と人との共存を予感させながら、仮想世界に強く入り込ませる激しいアニメーション、さらには見張り台にいたおじさんや、逃げる村娘の3人などの随所に、時代や世界観を訴える効果がありながら、これらが自然の流れに置かれ、全く素晴らしい。

 先の戦闘で右腕にタタリ神の呪いを喰らってしまったアシタカは、村の占い師の導きによって森の神シシガミの元へ向う。そして森を通って道中に山犬と少女サンに出会いつつ、タタラ場のある村に到着する。

 ここまでで、腕の呪いを解くという最終目標と、悪役に配置された人物の登場という、観る者に観るべき対象の明示と、伏線による話の奥行きの広さの提示が行われながら、アシタカが右腕を呪われ死を予告されたり、道中米を買うのに金塊を渡して驚かれたりという、視聴側が興奮する要素が詰まっているから見事です。
 また、ここでは森の神秘性が強く表現されている。カタカタ言う精霊のようなキャラクターや空想的な美しい虫や生物の登場によって、森の幻想性、神秘性、その魅力を強調している。(先日トトロも見たが、これにもトトロやネコバスに、その森の神秘性などが現れて、良い効果になっている。)

 さて、アシタカはこの村で長的な女エボシに出会い、彼女の工業化への思想を見聞きし、先日であったサンと因縁のために互いに命を狙っていることを知る。 ここで、タタラ場のある村では鉄の製錬が行われ、火薬やそれを用いた銃などを製造していて、ここは工業化した村として、すなわち森に生きることと対極の存在として描かれている。
 ここでもタタラ場を手伝う場面や、女性にアシタカが厚遇される場面に、媚を感じさせないエンターテイメント性と、力強く生きる女性像とが見られた。

 注目しておくのは、物語を提示する作者は森と工業のどちらの側にも公平な視点を提供していることである。先述した通り森の神秘性は描かれたが、その森の精霊に対してアシタカは「森が豊かな証拠」だといい、同行していた男は「シシガミ様が来る」といって酷く怯えていた。また、工業の象徴としてのタタラ場のある村では女性達が力強く働き、エボシ様は障害者に手を差し伸べ、極めて良い雰囲気の村であった。森と工業に対して、平均して偏った状態ではなく、良し悪しの宣言はない。

 そしてその晩にサンがこの村に襲撃し、ふたたびバトルアニメーションが始まる。森に生きるサンと工業化を図るエボシの共存を訴えるアシタカは、この戦いに割って入り、呪われた右腕の力を利用して双方を気絶させ、サンを森へ帰すことにしたが、去り際に左腹部に銃創を負う。この傷の為に森へ行く途中でサンが目覚めた時にアシタカは倒れる。不本意に戦いを止められたサンがアシタカの息の根を止めようとした際に、アシタカはサンに「生きろ」と、続けて「そなたは美しい」と言う。

 すなわちアシタカは作者と同じ中立の立場にある。タタラ場の手伝いをし、森の人であるサンの生き方を賛美し、どちらの魅力を知っているキャラクターである。

 サンは、シシガミに判断を委ねるためにその住処である深い森に彼を運ぶ。
 シシガミは、彼を生かしたが、右腕の呪いを解くことはなかった。
 ここで目的の解決手段を失うが、同時進行でシシガミの頭を狙うエボシと、森を潰した人間への復讐を狙う猪達、それに加わるサンと山犬、共存的解決を図るアシタカのクライマックスの構図が出来ていたから不和はない。

 それと、ここに凄く魅力的ないい場面があった。サンがアシタカの看ているシーンである。サンが干し肉をアシタカの口へ突っ込むが、アシタカは噛む気力がなく弱々しく干し肉を落としてしまう。そこでサンは干し肉を自らの口で齟齬し破砕してから、口移しでアシタカへ喰わせた。初見では結構衝撃を受ける。サンからしたら当然の行為だが、どっぷり頭まで工業化に浸かった潔癖の我々には削ぎ落とされた行為である。野蛮人と聞くといかにも理性がなく、頭が弱いと舐め腐るのが我々の常であるが、このシーンでその考えが結構な勢いで吹っ飛ばされる。こういう刺激的でアクセントのある画が作品にスパイスを加え、より良いものにしているのだと思う。

 最終的に人の手によってシシガミの首が取られ、シシガミは頭の無いデイダラボッチとなって暴走。村と森を破壊。アシタカとサンは首を取り返し、シシガミに返す。
 首を取り戻したシシガミの力によって、破壊された森はほとんど再生したがシシガミは形式的には死亡。エボシはまた一からやり直そうと村の者と励まし合い、アシタカはタタラ場に住むことをきめ、サンに時々会いに行くと言い、平和な雰囲気で終了。アシタカの呪いは殆ど消えていた。

 物語の解説など要らんかも知れませんが、自分用に備忘録としておく。


 作品としては現代に森と人との関わり方を提起しているように思われるが、この作品の舞台は、現代よりもずっと昔だ。現代よりも自然の豊かな時代に、森は悲鳴を上げ、人間に復讐を図ったのである。この作品を見て、現代における森との共存を意識したとき、作品との時代の懸隔に気が付くと恐ろしく感じる。

 そもそも森との共存とはどういうことだろうか。作品における森側の主張は完全な森化、人間側の主張は完全な工業化だが、この中庸をとるとなると、半分森半分文明化となる。ここでいう森は、人間の意思によるもので無く、森の意思によるものということを注意する。

 現代では緑に対する保全意識が年々高まり、誰しもが森林の重要性を理解しているだろうが、共存しているかと言えば、首を横に振る人が殆どだろう。都会などでは自然な森はろくすっぽない。あるとしたら、人間の手で整備された模倣の自然や、人工物に辛うじて抗う僅かな草花、利用するためだけにある人工林です。明らかに原始の森は失われ、人間が存続するための二酸化炭素吸収の役割の緑さえ足りていない。
 すなわち、もはや手遅れであるいう感が否めない。

 ただ、劇中でアシタカはシシガミは死んでいないと言った。その訳は生と死の二つの形がある生命そのものだからというのだが、単簡に言えば生き返るということだ。

 しかし、考えなくちゃならないのは森林の魅力も描かれつつ、工業と人間の魅力も描かれつつ、その必要性はどちらの立場においても語られず、共存の意味する具体的な中味も語られてないということを忘れてはならない。

 それと少し脱線して、森と工業の恐ろしさや畏敬の感も同じだけ描かれた。前者はシシガミが超自然的な力で生命を与奪するシーンや、デイダラボッチとなって一瞬で破壊を進めるシーン、頭だけになった山犬がエボシの腕を噛みちぎるシーンであり、後者は火薬によって森が真っ赤になるシーンや、動物たちを殺戮するシーンである。

 死んだ自然をどう生き返らせるかは我々が考えなくちゃならない。2019年現在においても環境問題は解決せず、以前悪化する一方である。しかしそれでも、意識は大きく変化し、具体策も多く取られ、改善している方向もあることも事実であるが、この作品のテーマは地球を変えていこう、自然を大事にしましょうという野暮ったいモンでは無いだろう。そもそも環境問題など根本的に解決できないし、自然と人の問題もエゴや主観で一律な解決を見いだせない。

 この作品によって、森林、殊に原始の森と工業の魅力と、それらに対する畏怖畏敬の視点、その共存のための思考の場を提示された。

 これで全てだ。あとは受容者次第であると私は思う。それほど芸術作品として完成されている。と思った。

 最後にちょっと、劇中に登場する女性について。ジブリの女性キャラクターは皆んな魅力的である。大体女性らしい線で滑らかに描かれているが、その心は強く、しっかりした女性が多い。上品で、美しく、強く、ちゃんとしていながら、時にか弱さや女性らしい面を見せるから、多分魅力的に映るのだと思う。女性らしい面というのは、男女でハグをするシーンによく見られる。もののけ姫ではサンが寝ているシーンもそうである。(pity’s akin to loveというように、山犬の言うようにサンが哀れであるから、愛らしく見えるのもある。)

 女性もそうだが、とにかくジブリ作品は上品である。高尚でありながら、先述した通りエンタメ性も失っていない。本当に作品に愛を持って丁寧に向き合っているし、直接に下品で俗物的なものを表現しない。作品が綺麗である。それは矢張り、作品を凄く大切に我が子のように作っているからだ。
 だから好きだ。


---追記(いつだか忘れた)---

 劇伴がとっても良いのを忘れていた!久石譲の壮大な音楽がこの作品に全く調和している。


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