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教育に恐怖って必要???


 僕は子供を成長させられない教師です。



 僕は今年度、学級経営の柱として「居心地の良いクラス」「成長するクラス」を掲げました。

 「居心地の良いクラス」はまあ達成したんじゃないかって思います。不登校もいなければ、登校しぶりもいません。児童観察をしていても、とても仲が良さそうです。自分が学級の状況を客観的に把握するために用いている「学級力」のデータでも「安心を生み出す力」に該当するものは軒並み高く、「誰とでも遊んだりグループになれる学級」を表す「仲間」という項目に関しては90もあります。

 ちょこちょこ不安材料はありますが、少なくとも昨年に比べれば格段にマシです。

 一方の「成長するクラス」に関しては・・・まあ酷いものです。

 児童の学力は下がり、児童はどんどん幼くなっていきます。「これではいけない」と危機感をもっています。危機感をもちつつも打開策が浮かばない。そんな状況が続いていました。

が。さっきスタバに行った時に運命的な出会いがありました。






 超かわいいスタバ店員です。

 彼女はすごく一生懸命働いていました。年末なのでお客さんが多いにも関わらず、一切嫌な顔をせず接客をしていました。僕はその姿を見て、たくさんのことを学びました。そして思い切って話しかけてみました。







 っていうのは冗談で(冗談にしては長いな)。

 残念なことに(?)出会ったのは以下の本です。






 この本に僕が課題を解決するための助けになることがたくさん書いていました。それについてまとめていきたいと思います。それではよろしくお願いします!




 結論から言うと、僕の学級経営には児童に恐怖感を与える仕組みづくりが足りていませんでした

 この結論に至った経緯を順に説明していきます。

 まずこの本において筆者は人間の本質について述べています。筆者によると「人間は放っておくと自然に還る」そうです。これは「人間易きに流れる」こととほぼ同義だと考えていいでしょう。

 人間にとって「頑張りたくない」「変わりたくない」「成長しなくてもいい」これらの状態が自然なのです。だから、これらを許すリーダーは部下に慕われるでしょう。

 しかし、人間は同時に社会的生物でもあります。分業社会の一員として自らの役割を果たすために頑張らなくてはいけません。成長しなくてはいけません。それが社会的生物としての人間なのです。これを求めるリーダーは時として煙たがられるでしょう。

 前述した通り、前者のリーダーはきっと部下に慕われるでしょう。「今度のリーダーはなんて優しいんだ!」と。しかし、本当に優しいのは前者のリーダーなのでしょうか?

 社会的生物として成長せず、役割を果たせない人物は誰にも必要とされなくなります。これにはかなりの苦痛を伴うでしょう。前者のリーダーは「成長しない」「頑張らなくて良い」状態を肯定することで部下を見捨てているのです。

 だからこそ筆者は会社経営において、会社のためにも社員自身のためにも「社員を自然に還さないための仕組みづくり」が必要だと主張しています。社員に適度な緊張感を与え、成長を促す。そんな仕組みづくりが必須だとしています。

 僕の教師としてのリーダーシップは、まさに前者のリーダーに当てはまります。「頑張りたくない」「変わりたくない」「成長しなくてもいい」これらの雰囲気を黙認し、子どもを見捨てていたのです。

 だから僕は、もっと児童に恐怖感をもたせていかなくてはいけません。


 






ここまで読んで、僕の記事に嫌悪感を感じている人はいないでしょうか?




 え??感じてる・・・・???そんなあ。






 そんな読者の皆さんが感じている違和感をお当てしましょう。ズバリ、





「恐怖感を子供に与えるなんて・・・嘆かわしいっ!!!」



 ってことなのではないでしょうか!!!





 当たってても間違ってても僕には確かめようがありませんので、記事を進めますね。



 この”恐怖感”って言葉・・・。強い言葉ですよね。僕もこの本を読む前だったら嫌悪感を感じてた可能性100パーセントです。

 ただ、この本を読んで僕は自分の思考の極端さに気づきました。僕はどこかで、教育において優しさが必要、恐怖は不必要だと決めつけていたんです。白黒思考でこの二つを捉えていました。

 しかしそうじゃなかった。必要な恐怖、不必要な優しさも存在するのです。

 長くなるので今回は必要な恐怖にだけ的を絞っていきます。

 恐怖を与える方法と聞くと、僕は「怒鳴りつける」「無視する」「細かくぐちぐち責める」「睨む」「権力に訴える」こんなところだと思っていました。僕はこんなものは教育ではないと嫌悪していました(実際僕もやってしまうことが多々あるのですが😢)。

 しかし恐怖を与える方法はそれだけじゃありません。「線を引いて、それを指摘する」それだけでいいのです。それだけで言われた相手は「何かを改善しなくてはいけない💦」「自分がかわらないといけない💦」と思うでしょう。

 線を引くとは、明確な基準を定めるということです。分かりにくいので例を挙げます。

 T=先生 S=児童
 S:「宿題忘れました」
 T:「○月○日〜時までに提出してください。間に合わないことが分かったら期限が来る前に知らせてください。その時にいつだったら提出できるか報告してください。」
 S:「分かりました」

 このように明確にやるべきことを告げるのです。ここまですれば、あとは進捗を尋ねるだけで相手に「何かを改善しなくてはいけない💦」「自分がかわらないといけない💦」と思わせることができるでしょう。

 「宿題どうなりました?」

 と聞くだけで。

 ですので、リーダーとして、教員として大切なのは「線を引くこと」。ここからは絶対に許しませんよという線を明確にし、学級全員が理解している状態にすること。そうすれば

 「それどうなってますか?」

 と聞くだけで、相手の変容を促すことができるのだと思います。




 子どもの成長には厳しさ、もっと強い言葉を使えば恐怖が必要なのは、2年の経験を経て断言できます。

 ですが学校教育に優しさが求められる昨今、子どもを成長させるのが難しくなってきていることを感じている先生方も多いことでしょう。厳しさが必要だと感じている反面、厳しさを発揮すれば保護者が出てくるという恐怖に怯えながら、指導にあたられている先生も同様に多いことでしょう。僕もその1人です。

 しかし、ここには厳しさを「怒鳴ること」「威圧すること」だと捉え、それなしでは子どもを成長させることができないという認知の歪みが働いていることは否定できません。

 先述したように、厳しさは何も「怒鳴ること」「威圧すること」と同義ではないのです。

 優しさと厳しさは両立できます。理想の姿としては、普段は腰が低く親しみやすく、面白い。けれど求める水準は高く、中途半端では評価せず、フィードバックが適切である。手抜きを見抜き、言い訳を聞かず、ルールに忠実。こんな先生が子供の成長を促すのではないでしょうか。





 会社の経営と学級経営は似て非なるものです。全てが応用できるとは考えていません。相手は子供です。そして児童によって発達も異なります。時には言い訳を聞き、求める基準を低くすることも大事でしょう。

 しかし、それだけではいけないのだということをこの2年間で思い知りました。真に子供のことを思うのなら、正しい方法で厳しさを発揮しなくてはなりません。

 1月からはこれを意識した学級経営を心がけようと思います。

「1月から5年生だと思って皆さんに接します。厳しくなると思います。」

 と布石は打っておきましたからね!

 来年は「子供のために子供に厳しくできる先生」になりたいです。




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