学校が奪っているもの
よくある学校批判として、
「学校が子供の個性を潰している。」
「学校教育はみんなをロボットにする。」
というものがよく聞かれます。どうしてこのような批判が生まれているのでしょうか?今回はここを掘り下げて考えてみたいと思います。
まず、このような批判が生まれている現代の時代的特徴をみていきましょう。
先ほどあげた学校批判に関連しそうなのは、4「集団主義と個人主義のバランス」ですね。経済の変化やSNSの発展、文化の多様性が増したことなど、これらの要因によって個人主義が広がりを見せているのでしょう。
そうなれば、集団主義が強い学校は批判にさらされるのは当然の流れのように思えます。
また、上記のような批判が生まれるのを助長している存在として「学校に馴染めなかった成功者」の存在があるのではないでしょうか?
成功者はその強烈な個性故に、成功したと言えるでしょう。そしてこれらの強い個性故に、学校ではいじめの標的に晒されたり、先生と馬が合わなかったりします。このような人物の存在が、「学校教育を受けても成功しない・結果が出ない」という認識を生み、学校批判を助長している可能性があります。
また、誰もが知る社会的な成功者だけでなく、身近にもプチ成功者みたいな人もいますよね。人望に厚かったり、人気者だったり、楽しそうに見える人生を送っていたりという人たちです。こういう人たちを思い浮かべてみることにします。
彼らは先生の言うことを真面目に、愚直に行うような人物だったでしょうか?
少なくとも僕の周りにいる人たちはそうではありませんでした。このような人たちの中には面と向かって先生に歯向かうような人もいましたし、直接的ではなくても先生の言うことをこっそり無視して、内職にふけるような人もいました。
逆に先生の言うことを真面目に、愚直に行うような人物は物笑の種でした。そして、そういう人がなぜか結果が出ない・・・。そんなことをたっくさん見てきました。
こういう経験がある人たちは、「学校教育を受けても成功しない・結果が出ない」という認識をもっているでしょう。このようなプチ成功者の存在も、「学校教育を受けても成功しない・結果が出ない」という認識を生み、学校批判を助長している可能性があります。
では、
「学校が子供の個性を潰している。」
「学校教育はみんなをロボットにする。」
という批判は妥当なのでしょうか??
僕はある意味妥当で、ある意味では妥当じゃないと思います。
成功者が成功したことの本質は「個性が強いこと」ではないと思うんです。その本質は「主体的だったか、そうじゃないか」だと考えます。
成功者たちは自分の人生を主体的に生きています。どれだけ学校でいじめられようと、先生にボロクソに言われようと、自分の個性を手放すことをしなかった。自分の生き方を曲げようとしなかった。だからこそ、成功したのだと思います。
個性が強い人なんて腐るほどいます。ただ、そんな個性が強い人たちのうち、何者にも迎合されず、個性を磨き続け、自分の人生を生き続けた人が成功者になったのだと思います。
つまり、「主体性が育っている子ども」=成功者なのではないでしょうか。
だから、
「学校が子どもの個性を潰している」
という批判はある意味そうです。
ただ、それよりも問題なのは
「学校が子どもの主体性を奪っている」
ことなのではないでしょうか。
・・・まあ、それが大人にとっても社会にとっても都合が良いんですけどね。自分の意思をもって歯向かって来る人ってめんどくさいじゃないですか?
そんなめんどくさい人を増やさないための・・・学校なんじゃないでしょうか。
大半の人が受身で従順なめんどくさくない人だから、社会は安定しているわけで。
相対的に主体性ある人が輝くわけで。その裏で苦しむわけで。
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