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みちのく浄土の旅

ひさびさにひとり旅をしてきた。

今度ひとり旅をするなら東北、と漠然と決めていて、漠然と平泉は行ってみたい…と思っていた。
あとは、近くの花巻(宮澤賢治の町だよね)、遠野(ものすっごい田舎に違いない)、できたら盛岡(直近で一番地価のあがった街とはどんな様子か)にでも行くか、というふんわりした旅。

ふんわりした旅ながら、今回の旅のテーマは”浄土”だったなと思う。
東北の歴史や土地について知らないことも多く、知らない喜びをひさびさにくすぐられる旅だった。

極楽浄土を体現しようとした平泉


10時すぎに平泉に到着。あいにくこの日は降ったりやんだりの雨の一日。
まずは毛越寺へ向かう。
お堂に展示されていた写真家さんの境内写真を見て、どことなくアンコールワットみたいと思う。そういえば奈良の東大寺周辺もこういう雰囲気。アテネの神殿の柱が法隆寺の柱につながっていたという、あの流れを思い出す。
あとで、本当に藤原一族がシルクロードを通じて伝わった文化を踏襲したらしいと知る。

浄土庭園を歩いていて、水があるって豊かなんだと思い知る。
見慣れた枯山水とか大名庭園よりも、水がふんだんにある庭園のほうが雅で、なんなら南国リゾートのヴィラみたいだ。
ましてや、ここは河川の水を引いていて池の水も澄んでいる。
水を引けるというのはそれだけの技術とお金があったということ。
それでいて浄土感も満載。

浄土にふさわしいお天気

武士の時代になり禅宗が広まって、質素に美を見出すように美のあり方が変わったけど、考えようによっては堅苦しく、やせ我慢がつきまとうものでもある。浄土庭園を目の前にしてそんなことが頭をよぎる。

質素さに価値を見出し広まったのは、単に金がなくなったからかもしれない。ミニマリストとかSDGsの広がりもそういうものが影響してるかもしれない。資源に限りがあると悟ったときに、処世術として美意識も転換する、というような。
現世が苦しい、けれど悟りを開けばあの世で浄土に行けるという考えを編み出したように。

お昼ごはん。餅セット。ずんだとか白ゴマとか。

おすすめ平泉文化遺産センター


毛越寺を出て、稲刈り後の田んぼを眺めながら中尊寺まで歩く。
途中、平泉文化遺産センターを覗いてみようと思ったら、じっくり堪能してしまった。入館無料なのにこの情報量はなに。

疎かった”みちのく”の歴史、奥州藤原氏、源氏とのつながりをお勉強。
東北というのは、東北平定の歴史のうえに成り立っていること、豊富な黄金があったことを知る。

東北の歴史を語るうえで坂上田村麻呂の存在は大きく、良くも悪くも破壊者だったんだと思う。
ふだん何気なく使ってる「征夷大将軍」とか「蝦夷」「みちのく(陸奥)」の語源も元をたどると、一方では平定し一方では虐げられた意味合いが残る。

そして、奥州藤原氏ってこんなに都から離れてるのにどうして栄華だったの?これだけ発展して文化事業にも力を入れて、独立国家として存続するための財源はどこからきたんですか?ってずっと疑問だったけど、砂金か!だから金色堂か!と謎がとける。(いまさら)
豊富な金によって交易が成り立ち、いろんな文化を取り入れられたんだね。

そんなことを無料で教えてくれる平泉文化遺産センターはぜひ行ったほうがいいです。

そして中尊寺


月見坂と呼ばれる坂を上がって拝観料を払って金色堂へ。
金色堂は奥まったところにあって、たどり着くまでにたくさんのお堂を通っていく。
教科書でよく見る写真は、金色堂を覆う建物なんですね。
その中に金色堂本体が入っている。

びっくりしたのが、金色堂って金閣寺みたいにただ金箔なだけではなく、
柱に螺鈿が施されているのね。
その螺鈿が息をのむ美しさ。
螺鈿は夜光貝を削って下絵の柄にはりつけていき、はみ出たところを削って模様にするそう。
夜光貝なんて南国でしか取れないから、これまた交易で手に入れたもの。
博物館には、紺地に金字で書かれた経典が展示されている。
どんだけ金があり余ってたのか。

金ぴかのお堂に金ぴかの仏像を眺めていて、今際のときに金色に包まれるのは幸せだろうか?という考えがもたげてくる。圧倒されるだろうけど。霧の真っ白の中というのも神秘的で捨てがたい。

中尊寺を後にして、時間切れで行けなかった高館義経堂を通り過ぎる。こんもりした森を眺めながら、こんな遠いところで死ぬことはなかったよね、と切ない気分になる。都はおろか鎌倉からもすごい遠い、遠すぎる。


夜。
一関まで戻って宿泊したホテルから、雨の鈍色の景色を見て思う。
わたしもずいぶん遠くまで来たなと。

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