愛は幻(3399文字)

 職員室へ向かう小松綾香の足取りは重くも軽くもなかった。スカートの折れ目みたいに一定の間隔で右足と左足を動かした。同時に左腕と右腕が前後に揺れた。ボリュームがあってツヤのない黒髪は束ねるわけでもなく肩にかかっていた。ブレザーに縫い込まれた名門女子校を意味するワッペンは学校の外では威厳を示すものの、校内では珍しいものではなかった。彼女の表情からは何も読み取れない。しかし学校という空間で毎日顔を合わせるクラスメートや教師なら小松綾香の気分を想像することができた。面倒な用事があって機嫌が悪いんだろうなと。

 仲良しグループの中にいる小松綾香は担任教師が「ちょっと」と声をかけようとするのに先手を打って「嫌です」と言った。言葉だけでなく表情も「嫌です」と語っていた。教師としては引き下がるわけにも行かず「いいから来なさい」と疲れた顔で言うので、小松綾香は「仕方ない」と思って用件を聞いてやることにした。弱い物イジメしているような気分にされたからだ。
「放課後に話があるから職員室へ来なさい」
 教師の名は北島。なぜ一人だけ男性教員なのですかと問われても「たまたま採用されて、他の男は全員辞めた」としか答えない。噂によると、東京大学の大学院で文学を研究していて、人望も厚く有能であったため将来は大学教授になるだろうと思われていたが、心優しき性格であるため権力闘争に幻滅してしまい、国語教師として新たな人生をスタートする。女子校に採用されたのは偶然ではなく本人の意思による。北島は女子高生という存在を偏愛していた。彼には彼の道徳観念があるため決して誰にも気配を悟らせたりはしない。しかし北島と付き合った女性(高校生含む)たちは彼の心が恋人以外のもので満たされていると気付いてしまう。そのため北島は三十代で独身である。
 どこまで本当のことか分からない。噂の発信源が小松綾香であることも本人は覚えていない。北島の設定はクラスの共通認識であったが、隣のクラスでは別の設定があるのかもしれない。
 職員室に呼び出されるとは小さな事件である。それを他のクラスメートに知られると面倒くさい。だから北島は小松綾香だけに用件を伝えようとした。それなのに小松綾香は強く拒絶の意思表示をしたため、それでも伝えようとする教師の姿に、とても重要な用件があるのだろうなあと周囲の人々に思わせてしまった。
 グループの輪に戻ると小松綾香は数々の質問を浴びせられる。
「なんだって?」
「職員室に来なさいって」
「反抗的な態度だから」
「そうかな」
「心当たりある?」
「ない」
「あれじゃない?」
「あれって?」
「婚約を申し込まれるやつ」
「なにそれ」
「小さな箱を開けると指輪が入ってて」
「これが僕の気持ちだ」
「三ヶ月分の給料だ」
 そんな無駄話が永遠に続かなかったのは時間割通りに次の授業があってチャイムが鳴って教師が来るからだった。
 さあ勉強に集中して学生の本分を全うする形にはなるけれど中身までその通りなわけもなく頭の中はそれぞれ何割か別のことを考えていた。主に考えているのは自分のこと。他人のことを面白がれるのは目の前で反応を見ていられるから。一人で他人のことを考えても自分のことが反映されがちで、結局は自分のことを考えているのと大差がない。
 小松綾香の頭の中で、ちょっとした反省会が行われていた。先ほどの北島への対応は良い結果を得られなかった。予想に反して引き下がらない北島に憐憫の感情を持ったのは失敗だった。徹底して拒絶するか、初めから素直に応じるか、どちらかにすれば良かった。教師に生徒が呼び出されるのは不自然ではないし、よくある光景だ。多くの場合で大人は忙しいため、逃げ回っていれば用件なんて忘れてしまうし、徹底して拒絶するのも悪くない。中途半端な選択をしてしまったから、婚約を申し込まれるだとか、からかわれてしまった。彼女らに悪意はない。むしろ好意である理由は小松綾香に合わせて話していたから。周囲から理解されない思考をしていると学習した小松綾香は人に頭の中身を話すことは少なくなっていたが、既に妄想癖の強い人物と認識されている彼女の妄想そのものは受け入れられなくても妄想する彼女そのものは受け入れられていた。
 人から認められるのは良い点と悪い点がある。この人はこういう人だと思われたら、有利に働く場面と不利に働く場面があって、授業中に他のことを考えていると思われがちなキャラクターであったなら、教師に目を付けられているから集中して授業を受けなければならない。気をつけるようにしてから成績は良くなった。授業に集中しつつ他のことを考える余裕も出てきた。一部の人から性格がキツくなったと指摘されたりもした。
 努力して手にした自由なのだから咎められる筋合いはないし、実際に教師たちは小松綾香が授業中に他のことを考えている気配を感じても見て見ぬふりをするようになった。北島も小松綾香を咎めたりしなくなったが、他の教師と違って妙に気にかけているような雰囲気があった。それは十七歳女子の正確すぎて不正確すぎる直感によって観測された。敵意ではない様子であったから、小松綾香は見て見ぬふりをしつつ、警戒を続けていた。
 北島がどんな話をしようと、冷静に情報を整理して、事務的に処理しよう。人間は上っ面だけを見ていて、本心なんて見たがらない。それも学習したことだ。なるべく誰も不幸にならないよう、適切な台詞と行動を選択したい。
 そんな気分で放課後まで過ごし、職員室へ向かった小松綾香について、何人かの同級生が証言している。機嫌が悪そうだった、と。
 北島は職員室の教師たちが忙しそうで自分たちに注目していないのを見回して、机の中から一冊の単行本を取り出して小松綾香に見せた。「愛は幻」というタイトルの小説だ。そして単刀直入に言った。
「この本の作者はお前だろう。去年の授業中にお前が書いてた創作ノートに内容が酷似している」
 そういえば北島にアイデアのメモ帳を没収されたことがある。授業中に絵を描いて怒られる人はよくいるが、小松綾香は授業と関係のない文章を書いていた。それにしても人から取り上げたノートを読むなんて職権乱用ではなかろうか。
「出版社に問い合わせたら、作者は覆面作家らしい。何らかの事情で正体を隠さなければならなかった。うちの学校じゃバイトは禁止だし、有名人になったら学業が疎かになるかもしれない。まあ俺には見つかってしまったけど」
 こんな日がいつか来るだろうと覚悟をしていたから、小松綾香は動揺しなかった。さて、この男は私をどうするつもりなのか。
「まだ他の先生には言ってないんですね」
「ああ、そこで話があるんだ」
 北島は夢を語り始めた。高校生の頃、文学作品に触れて感動し、将来は作家になろうと決めたこと。これまで何度も新人賞に応募して落選を続けていたこと。小松綾香の才能に気付き嫉妬していたこと。作家の世界は必ずしも実力ではないこと。どんなことをしても作家として成功しなければいけないこと。
「どうしてお前は覆面作家になった。現役女子高生の作家というだけで本は売れるというのに」
「そういうの嫌だったんです。誰にも認められない私の心だけで評価されたかった」
「お前の書いた小説は素晴らしいよ。分かる人間には分かる。でも売れていないし、このままじゃ次が出せるかどうかも分からない」
 北島は教師という立場ゆえに上からの物言いであったが、声も表情も疲れていて弱々しかった。この男が嫌いではない、と小松綾香は思った。
「それで私にどうしろと言うんですか?」
 教師と生徒という立場柄、小松綾香は敬語で北島に話した。相変わらず、何も読み取れない表情をしていた。

 覆面作家の名門女学生が変態教師に弱みを握られ交際を要求された事件はワイドショーや週刊誌で語られた通りである。二人の証言は食い違っていて、どちらの話も不思議と信憑性があって、人々から関心を持たれたが、結局は二人とも学校から去ることになった。
 小松綾香の「愛は幻」は話題で注文が相次ぎ、女子高生が覆面作家となる苦悩をテーマとした第二作はベストセラーとなった。便乗本として出版された北島の手記も一部の読者から文学として価値を認められた。
 二人の作家人生は始まったばかり。これから先の出版業界で二人は再会するかもしれない。事件の真相について、今のところは分からない。

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