社会小説化計画(3612文字)

 俺の通っていた小説講座は優秀な人ばかりで中でも卓越した才能を持ち俺を嫉妬させたのが天才チンパンジーのオルソン君と人工知能NNー1127の二名で彼らの文章には不思議な力があって「ぐりとぐら」を一字一句写経しただけでも読者に野性的だったり未来っぽい印象を与えることができた。彼らの外見や社会的地位が読者に先入観を持たせているのではなくフェロモンや電磁波が読者の脳を刺激して作品に魅力を与えていた。これを中身で勝負していないと批判するのは簡単であるが実際に彼らを前にしたとき前述の能力によって読者は魅力を感じてしまう。まだ彼らは無名作家であったため見知らぬ他人に作品を読まれる可能性は低く仮に彼らの小説の噂を嗅ぎつけた者が否定的な感想を媒体を問わず発表することがあれば彼らは必ず読者の前に現れた。俺はオルソン君の書く人間社会との軋轢や差別に向き合う小説を素朴な成長譚として読んでいたしNNー1127によるマザーコンピューターに支配された未来の社会で静かに暮らす人々を描いたSF小説は読み方によってディストピアでありユートピアでもあり現代に通じるものがあると両者を評価していた。しかしながら納得できなかったのは小説講座では作品の提出と発表と選評があり幾度も評価の上位二作品を飾るのはチンパンジーと人工知能であったこと。フェロモンや電磁波によって読者の感受性は操作されているのだから当然の結果ではあるが当時の俺は事実を知らず彼らの見た目で判断されているのではないか小説なんて属性と好き嫌いで評価が決まるのではないかと感じつつ諦めたら負けとめげることなく直向きに小説を書き続けていた。
 負け惜しみみたいな文章を書くと筆が冴えるね。その卑屈な態度が実は良心として機能しているのかも。あの国から一緒に抜け出そうと言った私の言葉よりチンパンジーの言葉を真に受けた貴方は目を逸らしたまま我々の使命は逃げることなく小説を書き続けることだと語るので仕方なく背を向け立ち去ろうとしたら後ろから抱きついてきて耳元で囁く「行かないで」の言葉は抱えきれない重荷を背負った凛々しい子供の隠しきれなかった弱さのように切実さが感じられた。私の心は殺傷力を検証するため弾丸を撃ち込まれた人間の体に近い弾力を持つ透明なゼリーのように揺れてすぐに収まった。絡みついた腕は私の体を這って右手は胸を左手は太股を撫で始めた。私のもつれた思考の糸はするりと解けた。同時に利き腕も自由に動かせるようになった。「行かないで」の言葉と私の体をまさぐる両腕は本体が同じであっても全てを受け入れたいと私は思わない。本当に私を失いたくないのであればチンパンジーとの友情ごっこなんかに拘らないで私に付いてくればいいだけのこと。結局はリップサービスでスケベが許されるという魂胆なわけだ。これほど冷静になれたのは似たようなことを何度もされていたし他の女にもしていると噂に聞いていたから。背中に押しつけられた顔面が滑るように背骨の終わりまで移動した辺りで私は腰をひねって各種格闘技では禁じ手とされることも多い頭部への肘打ちをしっかりと体重を乗せて情け容赦なく振り下ろした。部屋を飛び出した私を貴方は追ってこなかった。膝を曲げたまま後ろへ崩れ落ちて動かなくなった貴方の顔を思い浮かべた。死んだのかな。普通は追いかけてくるだろ。ばーか。
 退屈な話は書き換えてしまおう。NNー1127は過去と未来の記録を変更する余地を残してくれた。いつか彼からプレゼントされた腕時計は今でも正確な時間を俺に伝えてくれる。かつて小説講座で見たSF小説で描かれた通りマザーコンピューターに組み込まれたNNー1127は一人一人の市民に物語を提供した。膨大なデータから導き出された過去と未来の物語は個人や国家の利益が最大になるよう計算されていて逸脱した行動は禁じられた。人々は自由を失ったものの不安もなくなったと概ね好意的に新しい社会を受け入れた。と、いうことになっている。このような書き方をしなければならないのは人は物事を思い込みで判断していることが多く結局は小説の外側にある情報によって決定してしまう部分を否定できない。内側にある情報は描写されることで初めて存在を許される。行動の自由を失った人々は描写によって浮かび上がる新たな意味に価値を見出すようになった。同じ脚本でも演出によって印象が変わる。選べない人生を別の視点で楽しもうという考え方は主流となり教育にも取り込まれた。時代に取り残されそうな古い人間に向けた講習が各地で行われ専門家が不足したため自称小説家の俺にまで仕事が回ってきたわけだ。国家や個人の利益が最大化する物語は運命とされ我々の抵抗する手段は物語を細部まで描写して意味を変えてしまうことなのだと言ったオルソン君は既に気軽に君づけで呼べるのは小説講座以来の友人である俺くらいなほど有名で影響力のある存在になっていて一説によると政府から拘束され投獄され檻の中も性に合っていいかもねと減らず口をたたいて反感を買い薬物治療を施され知能を一般のチンパンジー並に落とされたと言われているが俺は直接本人に会って話を聞いているからオルソン君は健在であることを知っている。しかし恐ろしい噂話は半分くらい事実であるらしく実はオルソン君は何人もいるとか協力者から救出され長い期間の治療を経て復活したとか本当のことはよく分からない。激変してしまった社会の中で重要な役割を果たした人工知能と天才チンパンジーの活動については様々な小説が書かれている。小説で描かれた彼らの性格は史実に基づいているとされているが実際は小説家の想像力によって描写された姿でしかない。彼らの小説が出回ることはあっても彼らが公の場に現れることはなかった。ここで俺が得意気に友達面して本当の話とやらをしたところで事実か事実でないかより小説としての価値を見出されてしまうのだがそういう社会にしたのは彼らなんだから悪く思ったりはしないだろう。
 小説家の役割は物語を進めることよりも出来事の一つ一つを丹念に描写することに重点が置かれるようになった。あらすじを知っている未来に向かって生きる人々が自らの判断で運命を切り開く過去の主人公たちに共感できるわけもなく知り尽くした物語の結末やその過程を複雑に装飾した上でどのような解釈をするかに関心が持たれるようになった。特別な何かは手に入れるのではなく探し出して観察するものだ。こんな話を聞かされる人々は与えられた物語から逸脱を目論み講習を受ける義務の発生した者で恥ずかしながら今では教壇に立っている私も講習を受ける側になったことがある。屈辱でなかったと言えば嘘になるが時代の境目であったことや専門職に就くことで得られる特権によって厳しく罪を問われるようなこともなく大きな不満もないまま現在に至る。伝説の同人誌「社会小説化計画」に寄稿していた経歴が評価されたらしい。確かに私は貴方に誘われて原稿を手渡した。でも完成した同人誌を見たことはないしチンパンジーや人工知能が参加していたなんて聞いてない。伝説ということにされた架空の同人誌じゃないかとさえ思う。恩赦のつもりでそうしたなら止めを刺さなかったことが悔やまれる。
 どうして俺にはフェロモンや電磁波による洗脳を行わなかったのか質問するとNNー1127も同じだと思うけど君は見た目で僕らの小説を判断しなかったし人間でないことが必ずしも読者に良い影響を与えるわけではなかったから君は貴重だと思ったんじゃないかなとオルソン君は答えた。僕の能力は対面した相手にしか届かないし小説技術を磨いてもっと遠くの読者に影響を与えられるようになるには君のような存在から素直な感想を貰う必要があった。僕は頭の中にいる架空の読者と相談しながら小説を書いていたんだけど君に出会って相談相手が実在するように思えたんだ。これから支配者になろうとしている友人を牽制できるのは僕か君だけだ。思えば顔もよく似ている。小説を書き続けることで一緒に戦おう。オルソン君は握手を求めた。俺は嬉しくて嬉しくて涙がこぼれ落ちた。奇跡の逸材と切磋琢磨した日々は一方的に美化された思い出ではなく共有された記憶だったのだから。たとえ彼らが俺の頭の中でしか存在を許されなくなったとしても絶対に忘れたりはしない。
 とぼけているのか何らかの事情で忘れてしまったのか。何はともあれ月日は流れた。違う未来を求めていた人たちはもっと強烈な一撃を繰り出せるよう体を鍛えておくべきだったとか慈悲深い心を持つべきだったとか勝手なことを私に言うだろう。この短い小説はタイブレーク制度の導入前に終わってしまうから互いに譲歩した人の話に見える。のうのうと生きる人殺しが罪滅ぼしで貴方の功績になる予定だった壮大な未来予想図を書いたでも何でもいいけど。

投げ銭が貰えるとやる気が出ます。