なぜ倫理学なのか【個人的回想】―倫理学の合理と不合理

法学部時代の法哲学の講義

私は十年ほど前、法学部におりましたが、実定法ができなくて、できなくて、仕様がありませんでしたので、単位集めのために法哲学の講義を選択いたしました。そこの第一回目か二回目の授業でトロリー問題が取り上げられました。当時の私はトロリー問題を知りませんでした。

トロリー問題は、恐ろしい問題である

トロリー問題は、論者によってその問題意識が異なっており、それが何を問題視しているのかについて見解は一致していないようであります。いずれにしましても、私に示されたのは大体次のようなバリエーションでした。

「トロリーが暴走しており、その進路上には5人の作業員がいる。あなたは転轍機の前にいるが、そのレバーを引いて、進路を切り換えれば、5人の命は助かる。しかし、切り換えられた進路上には別の作業員が一人いるため、その命は失われることになる。」

このような状況で、レバーを引くか否かが問われ、挙手を求められました。講義室を見渡しますと、5人を救うが大多数で、1人を救うが、ごく少数でありました。私はと言いますと、恐ろしくて手を挙げることはかないませんでした。問いかけてきた当の教師の方は、次のような趣旨のことを言いました。記憶違いであることさえ願うのですが、次のように言いました。「この問いにおいて、1人を救う方を選ぶ人は知能が低いというジョークがある」(大意)。

これを受けまして私は、怒りや悲しみと言っては大袈裟ですけれども、或る御しがたいあはれを覚えました。勿論、こういった欧米流のブラックジョークを真に受ける必要はないのですけれども、私の素朴な道徳感情が知能の高低によって語られることに強い違和感を覚えたのであります。いったいぜんたい、トロリー問題において、私は何を問われているのか、私の何が試されているのか分からなくなりました。トロリー問題は、1と5の大小関係を問う算術の問題なのでしょうか。

実験室で行われる哲学

勿論、算術の問いではございません。行為時に焦点を当てて、その正当性・許容性を検討する規範倫理学の問いであると思います。これについては、緻密に場合分けがなされて、精緻な分析的議論が行われているかと思います。しかしながら、私が注目いたしますのは、倫理的ディレンマの解消ではなく、トロリー問題の悲劇性です。いずれを選択しても、誰かが死を引き受けなければならない。これは倫理的トラジディーではないでしょうか。無論、トロリー問題は思考実験でございますから、私が問題外、論外のことに注目しようとしているとお思いになるかもしれません。それは事実でございます。ですが、私はその実験が恐ろしいものですから、実験室を飛び出したのであります。

危機的状況、合理性の敗北、聖なる領域への立ち入り

トロリー問題は、我々に乗り越え得ない危機を提示しています。レバーを引く引かない、いずれを選択しましても、命は失われます。残された命には、癒やし得ない罪悪感が刻み込まれるでしょう。ここに私は日常性の崩壊と合理性の敗北をみます。人類学者マリノフスキーの図式を借りれば、俗なる領域から聖なる領域へと踏み越えざるを得ないのだと思います。

情緒主義から宗教哲学的解釈へ

こういった次第でございまして、私なりにトロリー問題に対してリプライすることができるようになりました。まさにそのレバーを引く引かないという行為の時点において、この問いは我々に、その選択をためらうか否かを問うているのだと思います。算術的な大小関係や作為不作為の区別も重要な論点であると思いますが、やはり合理的分析によっては回収しきれない何かがあるのではないかと思うのです。そしてまた、いずれの選択がなされたにしましても、行為の後にある、我々の罪の意識は否定し得ないでしょう。このようにして、私の関心は情緒主義の立場を保ちつつ、行為の宗教的な意味づけへと展開してゆきました。そこで問題となりますのは、この行為とその罪悪感を誰が引き受けるのかという当事者性の問題と、行為後の贖罪はどのようにして達せられるかということであります。

トロリー問題の提出者であるとされているフィリッパ・フットは、この問いに対して、積極的義務・消極的義務という区分の原理を提出して、ディレンマの解消を試みています。すなわち、或る人を助けんとして、つまり、そのような積極的義務を果たさんとして、他の人に危害を加えてはならない、そのような消極的義務を犯してはならないということです。しかしながら、この原理の背後に、「気の進まなさ(reluctance)」や「ためらい(hesitation)」をフットは想定しているように思います。さらに言えば、フットは5人を救うために1人を殺すときに、我々は「悔やみながら、嘆きながら(with regret)」それを行なうのであると表現しています。フット自身は有効な原理を提出することを目的としていたのでしょうが、行為を引き受ける人間の存在を意識していたように思います。合理によっては正当化し得ない何かに、彼女は目を向けていたのです。

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