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瑞々しさよ、さようなら

忘年会も終わった翌日の休日。昼間に大掃除をしたりしている間も、家事をしている間もずっと何かしら動画がBGM代わりに流されていたのを、夜も更けてきて、突然何もかも虚しくなって止めた。

全然片付かない本棚にある、過去の創作の端々を書き留めたクロッキー帳や、使いきれず、かといってなにも書かれていないわけではないから捨てられない日記たちの類のことを考え、小学生の頃につかっていたノートも大事に抱えて一緒に上京したことを考えた。自分の創作の世界に対するこの執着はなんだ。実在の他人との世界を構築するより、なにより大切だと感じている自分の中の世界はなんだ。私の部屋の中のあちこちに埃のようにつもってゆく思考の欠片たちはなんだ。

2012年1月ごろから、iPhoneを使い始めた。20歳になったばかりのころだ。そのころからiCloudに保存されてゆくメモアプリを使うようになり、日ごろのメモはもちろん、創作ノートとして使用していた。手の中の端末や、Apple社のクラウドデータサーバーの中にも私の思考の欠片は残されているのだ、と不思議な気持ちになりながら、2012年に書いていたメモを読んでいた。文章は拙く、語彙も少ない。その時々に何から影響をうけているのかありありとわかる、恥ずかしいような、むずがゆいような気持ちになるポエミーなメモたち。

自分が見ていたはずの景色や現実をつづった文章を、それが現実のことだったのか、それとも夢の中の出来事だったのかを判別できないまま読み進めているうち、「今の私にはもうこれらは書けないのだ」という気持ちに打ちのめされ、涙が出てきた。創作ノートに登場する人物たちのことはみんな覚えているのに、きっと今の私は彼らに不要なものも付け足していってしまう。たしかにあの頃より、語彙も増えたし、ビジネスマナーだとか、処世術やなんかを身に着けて、創作に生かせる知識も増えた。だが、そのせいで書けなくなったものも大勢ある。

私たちが表現すること、それはそのときどきの感性を、この流れ続ける時間につなぎとめるためのものなのだなと思った。
瑞々しさよ、さようなら。
今の自分は、過去の若き自分との永別を悲しむ、仰々しい文体の文章を書く大人になってしまいました。

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