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ジュリエットの雨 / ギリメノ(5)

2003/09/17

晴天を連れてきた友人を見送り、ヨノとふたりでアグン山に沈む夕陽まで見送った翌朝、島を照らすはずの太陽はついに姿を見せなかった。

曇り空で始まる一日ほど調子の狂うものはない。光の量がいつもと少し違うだけで普段の動作にも少しずつズレが生じた。

シャワールームの角のタイルに足先をぶつけ、左の小指の爪を割ってしまった。幸い軽く血が滲むだけだったが、こんなミスを犯した自分が情けなかった。使い捨てのコンタクトレンズすらうまく装けられず、結局、両目で三枚も無駄にした。

島を離れる時が近づいているのかもしれない。

泊まっていた宿は広大な敷地に大小さまざまなコテージが建ち並ぶ造りで、朝食はいつも中央のレストランで提供された。昨日までとは違いひとりで中に入ると、いつも顔を合わせるオーストラリアの三人に声をかけられた。

友人は今頃もうバンコクだと告げると、「いいタイミングだな、今日はこんな天気だからね」とアングースは笑った。

「まったく、あいつはいつも晴天を連れて帰るんだ。以前もそうだったから、きっと今日のこれも偶然じゃない」

ぼくもそう笑って、低く垂れ篭めた灰汁色の空に目をやった。

「じゃあ今頃バンコクは晴天ってこと? ねえ、あなたの友人に戻ってくるよう伝えてくれない?」

キャロラインも笑いながらそんなことを言った。朝からちぐはぐな動きを繰り返してばかりいたぼくの気持ちを、彼らの穏やかな笑顔がそっとなだめてくれた。

誘われるままジュリエットの隣に座ると、彼女はぼくの顔を笑顔で覗き込み、まるでイタズラ盛りの少年をたしなめるみたいにこんなことを言った。

「ねえ、ウィスキーないけど平気? ほんとにびっくりした。あんな雨のボートでいきなり飲み始めたりするから」

「あはは、船酔いするくらいなら酒で酔った方が幸せだ。これが友人の口癖で」

「呆れた。あなたたちいつもそうなの?」

「そう、最初に会った時からずっと。もうかれこれ六年ぐらい。今のセリフには続きがあってね。いや、なんだろな、あいつちょっとアニメの見過ぎなんだけど、酒で酔うくらいなら目の前の君に酔った方が幸せだって、そう女の子たちにすぐ言うんだよ。どう思う?」

「ひどい、ほんとひどい。でもそれ分かった。ねえ、だからこうして君と飲む酒が最高なんだって、どうせそう続くんでしょ? 呆れた、 結局お酒じゃない」

まさかこんな陰鬱な朝に揃って大笑いするとは思わなかった。アングースは弾けるような笑顔を見せ、キャロラインも身をよじって彼にもたれかかって笑った。

「ジュリエットはあんまり飲まないの?」

「雨のボートでウィスキー開けたりしない。するわけないでしょ」

「だよね、確かに」

「ううん、ほんとは誘ってほしかった。だって港であんな嫌な目に遭ったんだもの。ねえ、あなたたちすごく可愛かった。大きな笑顔でカンパーイって」

ジュリエットはテーブルに置いてあったオレンジジュースの小さなグラスを手にし、そのまま両手を上げて絶叫する真似をした。それから小さくぼくにチアーズと言って片目を閉じた。

朝食を終えたその足でレセプションに向かい、明日チェックアウトする旨を伝えた。復路はスピードボートではなく、ロンボク島のスンギギから定期船でバリ島へ戻ることになるという。1997年と同じルートだった。迷うまでもなくその場でチケットを購入し、出発時刻を確認した。

簡単に荷造りを済ませ、この島での最後の洗濯をし、割れた小指の爪を気にしながら海で泳いだ。

悲しいまでに澄んでいた海は、薄曇りの下では空と同じようにくすんでいた。ぼくが海だと思って泳いでいるこの水は、本当は空なのかもしれない。さよなら、空の魚たち。ふとそんな言葉が浮かんで切なくなった。

コテージのデッキに座り、傍らにマグカップのコーヒーを置いてギターを弾いた。数日前にバリ島で書いた曲を何度も繰り返し、メロディや言葉を少しずつ修正し、無駄なフェイクを取り除いたりコードをシンプルなものに替えたりした。

目を閉じてそんな戯れに夢中になっていると、デッキのステップが軋む音がした。目を開けると、両手にビンタンビールの小瓶を持ったジュリエットが笑顔で立っていた。

「邪魔しちゃった?」

「まさか。途中で止めてもらえて助かった。すぐ没頭しちゃうから」

ジュリエットは椅子の上にあったクッションを取ってぼくの隣に座った。キーホルダーに付けてあった小さな栓抜きでビールを開け、ぼくも笑顔で一本を彼女に手渡した。

「ほんとに用意がいい」

「あはは、結局お酒だからね。でもやっぱりビール嬉しいな、ありがとう」

ふたりで顔を見合わせ、アウトリガーでも朝のテーブルでも出来なかった乾杯をした。いつだって異国で飲むビールは最高だったが、こうしてふたりで飲むビールも格別なものだった。

ふと、朝のジュリエットの言葉を思い出して心の中で笑った。「でもそれ分かった。ねえ、だからこうして君と飲む……呆れた、結局お酒じゃない」

「さっきの曲、日本語のでしょう? ロックステディ?」

「そう、レゲエよりもスカよりもロックステディ。ぼくたちが生まれる前のリズムだよ。まだ完成してないけど歌ってみる?」

「あなたの曲なの?」

「意外でしょ? 酔っぱらいが日本語でロックステディなんて」

一通り歌い終わると、ジュリエットは王冠でビール瓶を叩いてカチカチと鳴らし、それから長く小さく拍手をしてくれた。

「あなたの声、大好き。穏やかで、すごく優しい声」

そんな突然の言葉に、思わず照れ隠しで右手を上げた。まあまあ落ち着きなさいと、そんなジェスチャーを混じえ、それからこんなことを言った。

「ねえジュリエット、眠れない夜に電話してくれたらいつでも歌うよ。三十秒で熟睡できるからね」

「ちょっとそれ真剣に考えようかな。確かによく眠れるかも」

「イビキが聴こえたら切っていい?」

「ほんとやめて。私そんなイビキするわけないし」

そうやってふたりで笑った。

空には相変わらず薄暗い雲が広がっていたが、雨粒はまだ天に留まったままだった。降るのか降らないのか、そんなどっちつかずの空も悪くないと思った。焼けつくような陽射しでは、こうしてふたりで過ごす午後を柔らかく包んではくれなかっただろう。

気紛れにギターを鳴らし、知っている曲をふたりで歌い、時々ビールで喉を潤して笑った。そんな穏やかな時間に身を委ねていると、ジュリエットは急に寂しげな声でぼくの予定を訊ねた。

明日にはもうこの島を離れることを告げると、彼女は小さくため息をこぼして下を向いた。それから彼女は、こうして三人で続けている今の旅について話してくれた。

彼らは三人とも幼なじみだった。

あの港で出会った時から気づいてはいたが、アングースは右腕の手首から先が内側に折れ曲がり、手のかたちも指の数も異なっていた。

幼い頃から彼の手助けを率先して引き受けていたキャロラインは、やがてアングースと恋に落ちた。けれどもそれで三人の仲が壊れることはなかった。今回の休暇も、いつものように三人で出掛けることに躊躇いはなかったという。

でも、とジュリエットは言った。

「でもね、もう大丈夫なんじゃないかって最近よく思う。私はきっと彼らふたりのバランサーだったし、私だってふたりの存在が拠り所だった。もちろん私にもボーイフレンドがいた時があったけど、でもね、いつもうまくいかなかった。いつだって私の中にふたりがいるから、彼氏たちはみんなそれがストレスだったみたい。どっちが大切なんだよって、馬鹿じゃないの? そんなの答えられるわけないじゃない」

「男の子ってたいていそうだよ。馬鹿なんだ。そのまま大人になってしまう男だってたくさんいる」

「呆れた、でもほんとにそう。だからもう私がいなくても大丈夫じゃないかって。違うな、そうじゃない。私が彼らふたりに寄りかかるのを止めるべきなんじゃないかって」

「難しいな。でも今ジュリエットがそう感じているのなら、それがきっと正しいと思うし、今がそのタイミングかもしれない」

「できると思う?」

「できるよ。だってほら、たった今まさかの日本語ロックステディを聴いたでしょう? 何だってできるんだよ。いずれにしても、ギターを手に取ることから始めないといけないけれど」

ジュリエットは本当に楽しそうに笑った。

「月曜日にバリ島へ戻る予定なの。次の日の夜にはもうオーストラリアだけど。でも、どうしようかな、ふたりはそのままレギャン泊にしてもらって、私だけ帰国便をずらそうかな」

「ウブドには行ったことある?」

「隣のプリアタンなら。そっか、あなたウブドに戻るんだったら、わたしもひとりでそこに行く。スクマ通りって分かる? 月曜日の夜、そこのジャズカフェってライブバーで会いたい」

スクマ通りもジャズカフェも分からなかったが、今こうしてジュリエットは心の中にあるギターに手を伸ばそうとしていた。彼女の言葉に頷き、ぼくはこんなことを言った。

「スクマ通り、ジャズカフェ。どっちも分からないけど大丈夫だよ。月曜日の夜、必ずそこで待ってる」

「うん、必ず。ねえ、もう一度訊くけど、私にできると思う?」

例えば共依存と呼ばれる心の状態がどんなものなのか、ぼくには想像すらできなかった。ジュリエットにしてみたら、彼らと離れて単独行動を取ることは、身体の半分を置いていくほどの決断を要することかもしれなかった。

ぼくはあまりにもひとりに慣れ過ぎていた。いくら愛する人が隣にいても、ぼくは自分のことしか考えてこなかった。誰かにとってのバランサーになれるはずもなく、自分自身の心のバランスを保つことだけで精一杯だった。

そして、それは結局うまくいかなかった。だからこうして何もかも壊れたまま、死に場所を探すみたいな旅に出てしまったのだ。

「できるよ、大丈夫だよ」

ぼくはやさしくジュリエットに言った。

「彼らがいなくても、ジュリエットは今ここにいる。こうやってビールを持って来てくれたんだ。それは今ぼくが全世界に証明できることだよ」

ジュリエットは抱えた膝に顎を乗せて照れたように笑うと、もう一度ビールのボトルを持ち上げてチアーズと言った。

今のぼくにできるのは、彼らがそばにいなくても怖がらなくていいと彼女に伝えることだった。彼女の存在を、彼らとは切り離したひとつの人格として認めることだった。

「ねえ、さっきの曲、もう一度歌ってもらっていい?」

「あはは、三十秒で熟睡するよ」

「六十秒がんばる」

ジュリエットのビールに自分のビールをコツンとぶつけ、それから目を閉じて日本語のロックステディを歌った。さっきよりも小さな音で、囁くようにメロディをつないだ。

突然、椰子の梢がざあっと鳴って、大粒の雨が島に降り注いだ。雨粒がコテージのまわりの砂に染み込む音さえ聴こえる気がした。

そっと目を開けると、ジュリエットは微笑みながら目を閉じていた。まるで雨音にくるまれながら空に浮かんでいるようだった。

ジュリエット、ひとりでもきっと大丈夫だよ、彼らがいなくても怖くないよと、もう一度ぼくは心の中で彼女の横顔に語りかけた。

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