transiency

2003年東南アジアの旅行記を今頃になって。

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最近の記事

旅のはじまり

2003/06/29 クアラルンプール国際空港、午後六時五十五分。成田を発ってすでに九時間が経過していた。 空港内にあるエアポートコーチ社のバス乗り場に腰を下ろし、何度も小さなため息をついた。高架電車スターラインの「Chan Sow Lin」という駅まで行こうと決めていた。けれど、定刻を過ぎてもバスは姿を見せなかった。 あと何分こうしていればいいのだろう。無事に乗り込めたとして、それがどれほどの道のりになるかも分からない。 熱帯の粘りつくような暑さがじっとりと肌を包ん

    • 遥かなる河 / ウブド(8)

      2003/09/29 あの日、バンコクの安宿で出会った日本人の青年は、大袈裟な手振りを交えながら陶酔した眼差しでこんなことを言った。 「ずっと旅の中にいたいんだ。旅なんだよ、旅」 正直なところぼくに言えるのは「旅なんていつか終わる」という冷めた思いだけだった。旅はどこかで必ず終わりが来なければいけないのだ。 期待通りの反応を示さないぼくに向かって青年は乱暴にこんな言葉を繋いだ。お前はいったい何を見てきたんだよ。いったい何を知ってんだよ。 今はもうそんな青年の態度や言

      • 優しさに埋もれて / ウブド(7)

        2003/09/28 時折、ふらりと足を伸ばしてプリ・ルキサン美術館へ出掛けた。誰かに呼び止められることも、大声ではしゃぐこともない時間。それは、肌に触れる温もりと同じぐらい大切にしたいものだった。 もちろん訪れるたびに入館料が必要だった。最安値の食堂であれば料理が五皿ぐらい並ぶ程度の。 絵画や彫刻に触れることが食事と比べて高いか安いかなんて、本当のところはよく分からなかった。でも、この静謐な時間は、他の何物にも換えられないものだと思っていた。 広々とした展示室を何度

        • 交差する光 / ウブド(6)

          2003/09/22 月曜の夜、スクマ通りのジャズカフェで。 ジュリエットと交わした約束の中身はこれがすべてだった。そして、きっと彼女は姿を見せないだろうと感じていた。あの甘やかな雨の時間は、ギリメノという島だからこそ成立したおとぎ話だった。 ジュリエットは何度も「私にできると思う?」と訊いた。それがすべての答えだった。 クトゥの貸本屋に立ち寄り、スクマ通りの場所を改めて確認した。壁に貼られた大きな地図の上をクトゥの指先が順に辿っていく。スクマ通りはプリアタンへ向かう

        旅のはじまり

          ほつれた糸 / ウブド(5)

          2003/09/21 彼女に声を掛けられたのは、デウィシタ通りがハノマン通りにぶつかる丁字路だった。インドネシア語で言う「ソレ」の時間帯で、影は背丈と同じぐらいの長さになって淡く伸びていた。 オートバイの撒き散らす鈍色の排気ガスが路上で何度もめくれた。頬を掠める風には微かな雨の匂いが混ざっていた。左右を交互に確かめ、ぼくは丁の字の縦棒へ向けて斜めに横切ろうとした。 「あ、あの、すみません」 出し掛けた足を引っ込めて振り返ると、大きな帽子をすっぽりと被った小柄な日本人女

          ほつれた糸 / ウブド(5)

          空色の悲しみ / ウブド(4)

          2003/09/20 数日前まで泊まっていたゲストハウスにチェックインして、すでに二日が過ぎていた。 長旅の疲れか、それともキレイ好き女王のお母さんに再会できた安堵なのか、ウブドに戻って以来ほとんど何もしていなかった。九時過ぎにベッドを這い出し、ぐずぐずと宿の朝食を胃に収め、ラタンの長椅子に寝転んで本を読みながら過ごした。 夕暮れ近くになるとクトゥの貸本屋へ出掛けた。いつものように他愛もない会話で笑い、読み終えた本と引き換えに新たな一冊を選んでポケットにしまった。 帰

          空色の悲しみ / ウブド(4)

          ジュリエットの雨 / ギリメノ(5)

          2003/09/17 晴天を連れてきた友人を見送り、ヨノとふたりでアグン山に沈む夕陽まで見送った翌朝、島を照らすはずの太陽はついに姿を見せなかった。 曇り空で始まる一日ほど調子の狂うものはない。光の量がいつもと少し違うだけで普段の動作にも少しずつズレが生じた。 シャワールームの角のタイルに足先をぶつけ、左の小指の爪を割ってしまった。幸い軽く血が滲むだけだったが、こんなミスを犯した自分が情けなかった。使い捨てのコンタクトレンズすらうまく装けられず、結局、両目で三枚も無駄に

          ジュリエットの雨 / ギリメノ(5)

          落日の火照り 後編 / ギリメノ(4)

          2003/09/16 「俺の友達がお前に何かしたのか?」 ヨノは向かいの椅子に腰をおろしてそう言った。小柄で華奢な青年ではあったが、ぼくを見据える瞳の奥には冷えた輝きがあった。 「たいしたことじゃない。ただ、ありがとうが聞きたかっただけなんだ」 テーブルに置いたままになっていた煙草をくわえた。フィルターが触れた舌先にサッカリンの甘みが広がった。ため息がこぼれるのを隠したくて、すぐにマッチに手を伸ばした。 ヨノが不意にぼくの手を制した。視線をあげると、きつく唇を噛みし

          落日の火照り 後編 / ギリメノ(4)

          落日の火照り 前編 / ギリメノ(3)

          2003/09/16 一足先にバリ島へ戻る友人とビーチ沿いの小さなレストランで最後の食事をした。照りつける陽射しの中で新鮮なシーフードピザを頬張り、よく冷えたビールを次々と空にした。 ぼくたちにとってこの液体はもはやアルコール以上のものだった。尽きせぬ会話であり、時間を超えて引き継がれる物語でもあった。 たったひとりを乗せたアウトリガーはうねる波に呑まれるようにして島を離れていった。互いに大きく手を振り、「次はいつだろうね」とふたりで笑った。 サンダルを手に持ち、砕け

          落日の火照り 前編 / ギリメノ(3)

          誕生 / ギリメノ(2)

          2003/09/15 美しいという言葉では言い足りない。悲しい、という感情かもしれなかった。 霧雨から一夜明けたギリメノは、天いっぱいに鱗をばら蒔いたような眩い光の中にあった。まぶたをきつく閉じても太陽の輪郭が分かる。こんな経験は後にも先にも初めてのことだった。 友人はやはり晴天をもたらす存在なのだろう。今日はきっと絶好のダイビング日和に違いない。鋭角に降り注ぐ朝の陽射しを受けて、ギリメノは白砂の海底からも光を放っていた。ダイビングをしないぼくでさえ、もう居ても立っても

          誕生 / ギリメノ(2)

          潮騒ギター / ギリメノ(1)

          2003/09/14  午後四時半のパブリックボートまで待つつもりだったが、他の旅行者たちに話しかけられ、総勢五人でボートをチャーターすることに決めた。  マフィアたちに恫喝される状況がとにかく不快だったし、このままでは神経が擦り切れてしまいそうだった。ぼくたちは我慢大会に来たわけではないのだ。さっさと島へ渡ってしまおうと結論を出した。  ボートをシェアしたのはオーストラリアからの旅行者で、男性ひとり女性ふたりという編成で旅をしていた。恋人同士で旅に出ている旅行者には何

          潮騒ギター / ギリメノ(1)

          マフィアと宝石 / バンサル

          2003/09/14 ロンボク島ギリメノ。珊瑚礁に浮かぶ外周わずか2キロほどの島。ぼくたちは今日ウブドからこの島を目指す。 先週末バンコクへ戻ったばかりの友人は、何を血迷ったか、昨日の午後インドネシアに再入国していた。いつかまたどこかで……そんな気障な言葉で別れたことがお互い少し恥ずかしかった。 「アレや、今回はダイビングとシーフードとビールやから。はいVTRどうぞ!」と、友人はCM明けみたいなことを言って笑った。 世界最多の島嶼を抱えるインドネシアには実に一万三千も

          マフィアと宝石 / バンサル

          雨を纏って / ウブド(3)

          2003/09/12 今日は満月の夜だと聞いた。けれども昼下がりのウブドの空は青磁色の雲に覆われ、薄い真綿のような雨が音もなく降り続いていた。 雨宿りも兼ねて入ったネットカフェで何通かのメールに返事を書き、あとは頬杖をついてニュースサイトを眺めた。目を閉じると切なく澄んだ東京の秋空がまぶたに浮かんだ。 ここ数日いつもこんなふうにして時間を潰していた。雨のブラスタギでもそうしたように、小さなノートに記した旅の記録を自分宛のメールにして送り続けた。旅なんていつか終わる。それ

          雨を纏って / ウブド(3)

          そばにいるから / ウブド(2)

          2003/09/09 きっとこの街のどこかに「めくる」と書かれた赤い三角形があったに違いない。しばらくは見向きもされない存在だったが、アジア通貨危機を乗り越え、西暦の千の位が繰り上がったあたりで状況が変わった。誰かが無意識に、もしくは何らかの明確な意図を持って、かつての街並みはペリペリと簡単に剥がされてしまった。 めくった包装フィルムの下から現れたのは誰ひとり見たことないウブドだった。この地で暮らすバリ人でさえ予想できない光景だったかもしれない。もちろん店や通りの名前は以

          そばにいるから / ウブド(2)

          あの場所へ / ウブド(1)

          2003/09/09 次の行き先はウブドに決めていた。いわばこの旅の最終目的地だった。1997年の夏、およそ二ヶ月の旅のゴールに据えていた村であり、別れた妻と最初に出会った因縁の場所でもあった。 エリックは昨夜、別れ際にこんなことを言った。 「明日一緒にウブドへ行こう。ぼくのバイクでよかったらそこまで送っていくよ」 彼の提案は心から嬉しかった。けれど、あまりにも長い道のりを思うと正直申し訳なさが先に立った。空港からの直行バスでさえ二時間近くかかってしまう距離なのだ。

          あの場所へ / ウブド(1)

          未来 / タンジュンブノア(3)

          2003/09/08 今朝もまた宿の近くの小さな惣菜屋でナシチャンプルを包んでもらった。細かなリクエストにも応じてくれるようだったが、注文はいつも「ひとつください」だけで足りた。 店の女性はぼくの姿を見つけると、無邪気に両手をひらひらさせて満面の笑みでおはようと言ってくれた。 大きな油紙の中央に山盛りのライスが乗せられ、店の女性は次々に惣菜を盛り付けていった。素揚げの青魚、豚肉の甘辛煮、ジャックフルーツのカレー煮、豆の葉とココナッツの和えもの、塩茹でのササゲ豆、小魚のフ

          未来 / タンジュンブノア(3)