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ほつれた糸 / ウブド(5)

2003/09/21

彼女に声を掛けられたのは、デウィシタ通りがハノマン通りにぶつかる丁字路だった。インドネシア語で言う「ソレ」の時間帯で、影は背丈と同じぐらいの長さになって淡く伸びていた。

オートバイの撒き散らす鈍色の排気ガスが路上で何度もめくれた。頬を掠める風には微かな雨の匂いが混ざっていた。左右を交互に確かめ、ぼくは丁の字の縦棒へ向けて斜めに横切ろうとした。

「あ、あの、すみません」

出し掛けた足を引っ込めて振り返ると、大きな帽子をすっぽりと被った小柄な日本人女性が立っていた。帽子に隠れて表情までは見えなかったが、声を掛けるだけで精一杯という雰囲気だった。

「あの、えっと……」

彼女はそう言うと、ぎゅっと唇を噛んだ。その躊躇いの底にあるものをぼくは察することすらできなかった。ただ、彼女は今、何か大きな決意を胸に声を掛けていることだけは確かだった。

大丈夫ですよ、とぼくは笑顔で言った。「ひとまず落ち着いて。大丈夫。えっと、一緒に深呼吸しますか?」

何をどう伝えたら彼女はペースを取り戻せるだろうと思った。俯きながら小さく呼吸を繰り返す彼女に、どうやったら和らいだ空気を届けられるのだろう。

「……すみません。少し疲れちゃったんです。もう私、日本に帰るんです。明日の午後、空港に行きます。もうバスのチケットも取りました。もう、ほんとに、あと二十四時間ぐらいなんです」

彼女は訥々とした口調で一生懸命にそう言った。言葉に少しだけ東北地方の訛りがあるのが分かった。方言の持つ素朴な温かさに、ぼくの気持ちまで一緒に解けていくようだった。

「どうぞ、ゆっくり話してくださいね。うん、大丈夫。大丈夫ですよ」

もう一度、今度は少し声のトーンを下げて言った。呼吸のたびに小さく上下する彼女の肩を、凪いでいく海を見守るように見つめた。

「すみません。あの、でも、えっと……。いえ、すみません。あの……私と一緒に、どこか、ごはん食べに行ってもらっても構わないですか?」

やっとのことで彼女はそう伝えることができた。頑張ったね、と思わず声を掛けてしまいそうになった。そして、どんな覚悟でそう伝えてくれたのかを考えた途端、胸の奥で何かがカタンと小さな音を立てた。

「ほんとは、もっと長くいるつもりだったんです。でも、つらくて、やっぱりどうしても駄目で、それで帰国を十日も早めたんです」

うん、とぼくはやさしく言った。「うん。それが明日なんだよね?」

「……はい」

彼女はまるで今すぐさようならを言うみたいに返事をした。捨てられた仔犬の鳴き声のように物悲しい響きだった。

それぞれにとっての旅があり、それぞれにとってのバリ島がある。それは至極当然のことだった。それなのにぼくは、こんな当たり前のことをすっかり忘れていた。楽しくないバリ島だってある。つらくなってしまうバリ島だってある。逃げ出したくなるバリ島だってある。そんなのは当たり前の話じゃないか。

「……すみません。あの、えっと、お店、私よく知らないんです。知らないのに、急に、こんなこと……。ほんとに、ほんとにすみません」

「辛くない方がいいでしょう?」

できるだけ彼女に負担をかけないようにと、そんなふうに少しだけ押し付けがましく訊いた。大丈夫だよ、店はぼくが選ぶ。美味しくなかったらぼくを責めればいい。あなたのせいじゃないんだ。

「辛くなくて、いろんなものが少しずつ食べられて、美味しい野菜スープがついて、きちんとデザートまでついて、しかもびっくりするぐらい安い。ね? 行ってみたくなるでしょう?」

「……ほんとに、ほんとにすみません。ありがとうございます」

彼女はまるで今にも泣き出しそうな子供みたいだった。小さく何度か頷くと、彼女は初めて顔を上げてぼくの顔をまっすぐ見てくれた。恥ずかしそうに、なんとか笑顔を作ろうとする彼女の眼差しには、けれどもう涙が滲んでいた。

案内したのは、ウブド王宮から西にふたつ入ったカジェン通りの店だった。ごく普通のバリ様式の民家の二階部分だけが小さなレストランになっている場所だ。

地の野菜だけを使い、ケミカルなものを極力排した味つけは、いつも口に優しかった。ぼくの中だけで「隠れ家ごはん」と呼んでいたとっておきの店だった。

「ナシチャンプルっていう、お子様ランチみたいなのがあるんです」

「チャンプルって……」

「そう、沖縄の言葉と同じ意味だと思う。インドネシア語だと、混ぜるとか、合わせるとか、そういう意味で」

「……私、それにします」

「ぼくもそれにするよ。実はね、このお店だとナシチャンプルしか食べたことないんだ」

そう笑いながら返すと彼女は初めてにっこりと笑ってくれた。素敵な笑顔だった。大丈夫、その笑顔があれば大丈夫だよとぼくは思った。

料理が運ばれると、彼女は両手を広げて無邪気に「わあ!」と言った。「すごい。すごく美味しそう!」

そんなふうに喜ぶ彼女の姿を、ぼくは自分のことのように嬉しく眺めた。ひとつひとつの副菜を指差し、「これは? これって何て言うんですか?」と訊ねては笑顔を見せる彼女に、ぼくは丁寧にインドネシア語を付け加えて答えていった。

「……あの、実は私、ずっとオーストラリアにいたんです。ワーキングホリデーで、だいたい一年半ぐらい」

彼女は時折フォークを持つ手を止め、小さなため息をこぼしながら言葉を繋いだ。戸惑いながら、言葉を選びながら、それでも彼女の声はさっきよりも随分と落ち着いたものになっていた。

「留学していた英会話スクールも終わって、それで、ほんとだったらまっすぐ帰国してもよかったんです。でも、ストップオーバーでバリ島にも寄れるって分かって、三週間の予定で入ったんです」

彼女は握っていたフォークにぎゅっと力を込めた。

「最初はクタっていうビーチに行って、そこで、すごく人が荒っぽくて疲れちゃって。それだけでもう嫌になって、それからウブドに来たんです。でも、今度は朝晩がものすごく寒くて、いきなり風邪ひいちゃって。しかも、お腹までこわして、全然ごはんが食べられない時もあって」

言葉も通じないひとりぼっちの旅先で体調を崩してしまうことほど心細いものはないだろう。熱にうなされながら、彼女はどんな気持ちで天井を見上げていたのだろうか。

「でも、三日ぐらいでちょっと良くなったから、一度ジャワ島のボロブドゥールっていう遺跡まで現地ツアーで行ったんです。二泊三日でした。でも、そうしたら帰りのバスの中でカメラ盗まれて。カメラだけ別のカバンにしてたんですけど、撮り終わったフィルムもいっぱい一緒に入れてて、それごと、全部……」

彼女の瞳にまた涙が滲んだ。カメラだけならまだ諦めがついたかもしれない。けれど、撮り溜めたフィルムだけは絶望的だった。損なわれてしまった時間や思い出はどうやっても取り戻せるものではなかった。

「すごくショックで、また体調がおかしくなって。もう誰かと話したり、どこかへ行ったり、そういうのが全部つらくなってしまって……。知り合いもいないし、一緒にごはん食べる人もいないし、調子が悪くても誰かが看病してくれるわけでもなくて。もう嫌だって思ったら涙が出てきて。いつもずっと悲しくて。だから、まだ予定の半分ぐらいなんですけど、帰国を早めたんです」

彼女は顔を上げてぼくを見つめると、また小さく俯き、申し訳なさそうにこんなことを言った。自分自身に言い聞かせるみたいに、でも、どうしても伝えなければと、そんな必死さをかき集めながら。

「でも、それじゃあんまりだって思ったんです。せっかく来たのに、そんなのひどすぎるって。だから、今までやったことないこと、やってみようって。できなかったこと、やってみようって。……だから、それで」

「ぼくに声を掛けてくれたんだね?」

「……はい。でも、絶対ダメだろうって思ってました。最後ぐらいバリ島で誰かと一緒に楽しくごはんが食べたいだなんて……。だって、そんなの都合良すぎるって思ってました」

彼女の瞳にまた涙が浮かんだ。唇を噛み締め、涙がこぼれるのを必死にこらえる彼女の姿を、ぼくはただ何も言わずに見守るしかなかった。けれど、この涙はきっと前向きなものだと思った。彼女はほつれた糸をもう一度自分の手で結び直そうとしていたからだ。

「一緒に食べると美味しいね」

無意識にそんなことを言った。そう声に出してしまったあとで、その言葉の優しさや温もりに気付いて胸が苦しくなった。こうやって向かい合わせで食べる食事の美味しさや、こんな柔らかな午後の温もりに、本当の意味で救われていたのはきっとぼく自身だった。

「……声を掛けることができて、本当によかった。実は何度かお見かけしたことがあったんです。だから覚えていたんです。通りに座って地元の人たちと楽しそうにお喋りしてるところとか、他の旅行者とビール飲んでるところとか。いつも楽しそうって思って見てたんです。あんなふうにお喋りできたらいいなって。きっと私もこの場所が好きになれるのになって。だからさっきあの道で見かけた時、すごく嬉しくて」

ありがとう、とぼくは頷きながら彼女に言った。「声を掛けてくれて本当にありがとう。ぼくも嬉しかった」

そう声に出してしまうと、彼女はもう涙をこらえることができなかった。

ポロポロと大きな涙をこぼし、それでもまだどうにか笑顔を作ろうとする彼女の健気さがぼくの胸を打った。彼女の中のまっすぐな何かを、ぼくは自分自身に重ねようとしていたのかもしれない。

「……明日、帰ります。でも、きっと、笑顔で帰れると思います。わがままにつきあってくださって、本当に、本当にありがとうございました。ここだけ違うバリ島です。少しだけ、バリ島が好きになれたように思います」

「元気でね。明日、元気に日本に帰ろうね」

彼女はまた小さく頷くと、両方の指で子供みたいに涙を拭った。赤く目をはらしながら精一杯の笑顔を見せる彼女の姿を、まるで大切な一通の手紙のように、ぼくはそっと小さく折りたたんで胸の奥にしまった。

「声を掛けて、ほんとに良かった。最後にひとつだけいい思い出ができました」

彼女はまた潤んだ瞳のまま笑顔を見せ、小さく、ゆっくりと息を吐いた。

「これ、食べちゃいましょう? きちんとデザートまで食べて、それからもういちど今の言葉を言いましょう?」

ぼくはまるで、これからの予定を決める時のように弾んだ声で彼女に言った。

「……はい。まだ、途中ですもんね」

「そうそう。まだ途中だから。まだね、まだ終わってないから」

時おり涙を拭いながら、それでも彼女はしっかりとフォークを動かして料理を口に運んだ。「……美味しい」と、何度か安堵のため息をこぼすように言った。

彼女の笑顔を確かめてから、ぼくは秘密の作戦でも相談するように小さな声でひそひそと彼女に言った

「ところでパパイヤって好きですか? ここのデザート、ぎゅっとライムを搾ったパパイヤが出てくるんです」

「美味しそう。パパイヤ好きなんです。美味しいですよね?」

「しかもね、きちんとバナナの葉で編んだ器に入って出てくるんです。それがまた素敵なんだ」

「すごく楽しみ。早くこっち食べちゃわないと!」

「はい決まり! 実は南国フルーツ全般ニガテなんです。アレルギーがあるみたいで。だから、ぼくの分のパパイヤも食べてくださいね」

「え?」

「あげます、全部」

「え?」

笑いながら、ぼくはもう一度確かめるように彼女に言った。「ぜんぶ食べ終わってから、もう一回さっきの言葉を聞かせてくださいね」

彼女は本当に楽しそうに笑った。にっこりと細めた両方の瞳はほとんど閉じてしまいそうだった。

「ひとつだけいい思い出ができました。そして私は二人分のパパイヤをぺろりと食べました」

彼女に代わってそうゆっくりと声に出した。彼女は大きく頷くと満面の笑みを浮かべ、ぺろり、と声に出して笑った。

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