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交差する光 / ウブド(6)

2003/09/22

月曜の夜、スクマ通りのジャズカフェで。

ジュリエットと交わした約束の中身はこれがすべてだった。そして、きっと彼女は姿を見せないだろうと感じていた。あの甘やかな雨の時間は、ギリメノという島だからこそ成立したおとぎ話だった。

ジュリエットは何度も「私にできると思う?」と訊いた。それがすべての答えだった。

クトゥの貸本屋に立ち寄り、スクマ通りの場所を改めて確認した。壁に貼られた大きな地図の上をクトゥの指先が順に辿っていく。スクマ通りはプリアタンへ向かう交差点のひとつ手前だった。かろうじて存在は知っていたが、いつも素通りしていた場所だ。

こんな路地にジャズカフェなんて店があるのかと訊ねると、クトゥは静かに首を振った。「分からないな、バンジャール(地域共同体)が違うから」と。

いずれにしても、この貸本屋からであれば歩いて二十分程度の距離だった。クトゥに礼を告げて外へ出ると、太陽はすっかり地上から消え、空のあちこちに緋色の名残が滲んでいた。

スクマ通りへ向かう間、いったいぼくはどんな立場でジュリエットに再会すればいいのかと、そればかりを思った。彼女は直感的にぼくの性格を見抜いていた。この人は私が甘えてもいい相手なんだ、と。

もし本当にジュリエットがひとりで行動できていたとしたら、彼女は間違いなくぼくの懐へ全力で飛び込んでくるだろう。もっと知ってほしいと語り続けてしまうに違いない。話し疲れたらぼくに寄りかかればいいことも彼女は分かっていた。この人ならやさしく抱き止めてくれるはずだ。だから、きっともう大丈夫なんだ。

けれど、残念なことに、ぼくは彼女の新たな依存先ではなかった。そんな器の人間ではなかったし、ぼくはぼく自身のことだけで精一杯だった。どの段階でジュリエットがその事実に気付いてくれるのか、それがひとつの分岐点になるだろうと思った。

夜のスクマ通りは驚くほど閑散とした場所だった。中途半端に放擲された建設現場が弱々しい街灯に照らされて光っていた。中央に立って通りの奥までを見渡すと、それでも儚げに灯る明かりが見えた。順に当たっていけばきっと店も見つかるだろう。

拍子抜けするほどあっさりとジャズカフェは見つかった。ふたつ目の街灯がぼんやりと看板を照らしていたからだ。そして、入口に掛けられた木製のプレートには「CLOSE on Monday」の文字があった。

思わず吹き出してしまった。まさかこんな結末が待っているなんて誰が予想できただろう。「ねえジュリエット、こんな終わりってどう思う?」と、ぼくは心の中で彼女に語りかけて笑った。

正直なところ、少しだけほっとしている自分がいた。それは彼女を傷つけてしまう状況を回避できたことへの安堵だった。

もう一度ぐるりとジャズカフェを眺め、小さくため息をついてから、何事も無かったように来た道を引き返した。「私にできると思う?」と訊ねるジュリエットの横顔が何度も心に浮かんだ。

どこかで食事をしてから帰ろうと歩いているうちに、うっかり宿を通り過ぎていた。うんざりしながら戻り掛けると、すぐ横のレストランバーから大声で呼び止められた。寄ってけよ、とギターを弾いていたバリ人の青年は言った。

いや、違うんだ。店に入ろうか迷ってたわけじゃない。宿を通り過ぎちゃっただけなんだよ。咄嗟にそんなことを思ったが、もちろん口には出さなかった。

改めて店内に目をやると、彼の仲間らしき数人のバリ人と初老の旅行者たちが、ギターやブルースハープやカホンなど、さまざまな楽器を手にして酒を酌み交わしていた。

「日本人だろ? なんでもいいから日本語の曲を聴かせてくれよ!」

青年はそう言ってグラスを持ち上げ、まぶしいぐらいの笑顔を見せた。そばにいた初老の旅行者たちも立ち上がり、陽気に笑って乾杯の仕草をした。

「何してんだよ、早く早く!」

そう急かす彼らの顔にはすっかり満ち足りた笑顔があった。

促されるまま仲間入りをし、手渡されたギターをかき鳴らした。ほんの一瞬だけ迷ったが、結局、自分の曲だけを歌うことにした。きちんと歌詞を決めていない部分もあったが、構うものかと勢いに任せてメロディをつないだ。

一息ついた時、隣りにいた初老の旅行者のひとりが立ち上がってぼくに手を差し出した。思わず握り返すと、彼はまるで我が子にするかのようにぎゅっと抱きしめてくれた。

「君の声が好きだ。日本語の響きというのは実にいい」

彼はステファンと言う名のアマチュア写真家だった。オランダから旅に出たんだよ、君と同じようにひとりでね、と彼は無邪気に笑った。深い皺の刻まれた目元には包み込むような光があった。

「ビールをご馳走させてくれないかな?」

ステファンはにっこりと微笑むと、カウンターに向けて「ビンタンふたつ!」とインドネシア語で言った。

代わる代わるギターの弾き手が変わり、同じくオランダからやってきた通称ビッグ・ジョンが大きな身体を揺らしながらブルースハープを吹いた。続けてバリ人の青年たちは、カホンとジャンベで強烈なビートを叩きながら、インドネシア語でラップを披露した。

振り返ると、いつの間にか店内は多くの旅行者たちで溢れていた。どうやらこの店は楽器を鳴らしたい人間たちが集まる場所のようだった。

次にギターを手にしたのはドイツからやってきたマークという青年だった。彼は素朴な笑顔を見せると、いきなり技巧的なフレーズから始まるジャズギターを弾いた。

すっかり耳を奪われ、マークのギターに聴き惚れていると、いつの間にかステファンが新たにビールをご馳走してくれた。慌てて立ち上がると、ステファンはまたぼくを抱きしめて笑った。

奥のテーブルでは、ぐでぐでに酔っ払ったフランス人と、全身タトゥーのいかついオーストラリア人が仲良くテーブルを囲んでいた。その奇妙な組み合わせは見ていてどこかほっとする光景だった。

更に、ドレッドヘアを大きく束ね、セクシーなドレスを身に着けたリナというチュニジアの女性と、同じくセクシーなドレスを纏ったブラジルのファティマという女性が、テーブルの隙間をすり抜けるようにして華麗に踊った。

彼女たちが通り過ぎるたびに大きな歓声が上がり、その光景はまるで、いつかどこかで観た映画の一場面のようだった。

どういう理由かは定かではなかったが、彼女たちふたりはぼくの歌を特に贔屓にしてくれた。歌い終わるたびにファティマはぼくの耳に口を近づけ、ハスキーな声でささやくように「あなたの声が好き」と言った。

ジュリエットのことが強烈に恋しくなった。彼女もここにいてくれたらどんなに楽しかっただろう。

でも、きっとこれが旅なのだと思った。いくつもの偶然が重なって、この顔ぶれでこんなふうに過ごす夜はもう二度と巡って来ないのだ。

一度きりの光を放ちながら燃え尽きる流れ星みたいに、ぼくたちもまたこうやって交差していく光だった。

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