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あの場所へ / ウブド(1)

2003/09/09

次の行き先はウブドに決めていた。いわばこの旅の最終目的地だった。1997年の夏、およそ二ヶ月の旅のゴールに据えていた村であり、別れた妻と最初に出会った因縁の場所でもあった。

エリックは昨夜、別れ際にこんなことを言った。

「明日一緒にウブドへ行こう。ぼくのバイクでよかったらそこまで送っていくよ」

彼の提案は心から嬉しかった。けれど、あまりにも長い道のりを思うと正直申し訳なさが先に立った。空港からの直行バスでさえ二時間近くかかってしまう距離なのだ。

返事に困っているぼくにエリックは笑顔でこんなことを言った。

「実はウブドって行ったことないんだ。あははは、道分かんない。だからね、一緒に訊ねながら行ってみようよ。タイラもインドネシア語できるからぼくだってすごく心強い」

そんな言い方がたまらなく嬉しかった。ぼくの知っているウブド、エリックの知らないウブド。一緒に行ってみようと心に決めた。

昨夜の土産物屋の前で待ち合わせ、いつもの重たいリュックサックにギターを背負った格好でバイクに跨った。カデの姿が見えなかったが、そういえば彼女はまだ大学生だったことを思い出した。エリックにそのことを訊ねると、彼女が大学から戻る夕方までには帰ってきたいと恥ずかしそうに言った。

これから始まる長旅にエリックも少し緊張していたのだろう。本格的に出発する前に彼の暮らす部屋へ立ち寄り、景気付けに自家製のアラックをふたりであおった。

アルコール度数50度は下らない強烈な液体をコップ一杯ずつ一気に飲み干し顔を見合わせて笑った。喉が焼け、酔いが一気に回った。まだ時計は朝十時を回ったばかりだった。

無理やりにテンションを上げてウブドを目指した。エリックもぼくも明らかに酔っていた。カーブや車線変更のたびにバイクがぐらりと傾いた。時折わけもなく大声で奇声を上げ、何度も路肩にバイクを停めてはふたりで笑い転げた。正真正銘の酔っぱらい運転だった。

途中、州都デンパサールへ向かう直線道路では恐ろしくなるほどのスピードで疾走した。走りながらエリックに声を掛けると彼は声を裏返してこう叫んだ。「もう120キロ出てる。怖いよう!」

何度も道に迷いながらそれでも三時間足らずでウブドへ到着することができた。かつての記憶を頼りに村を見回したが、結局この地がウブドだと確信できたのはジャラン・ハノマンという通りの名前を耳にしたことだった。地名以外にぼくの記憶を裏付けるものは何もなかった。

目に付いた食堂の脇にバイクを停め、何も言わずにエリックと固く抱き合った。この喜びはそうすることでしか伝えられない種類のものだった。エリックもまたその筋肉質の腕でがっちりとぼくの背中を抱きしめた。

「ありがとう」

最初にそう言ったのはエリックだった。「すごく楽しかった。本当に本当にありがとう。ぼくら最高の友達だよ」

何度もクラクションを鳴らして振り返るエリックに、ぼくは両腕を広げて大きく手を振った。カデが戻ってくる前に無事にタンジュンブノアへ帰れることを心から願った。ふたりは今日の出来事をどんなふうに分け合うのだろう。仲睦まじく寄り添う姿を思い浮かべると胸の奥に温かなものが広がっていった。

エリックが走り去った道をしばらく見つめ、小さく息を吐いてからウブドを歩き始めた。おかしなことに、風景に目を凝らすたびに記憶がどんどん曖昧になっていった。

かつては路地の一本まで頭に入っていたはずだ。あの角を曲がれば、この路地を進めば、と。けれど、次から次へと見慣れぬ光景が目の前に現れ、ぼくの記憶をズタズタにした。

サッカー場のゆるい坂道を下り、何本目かの路地を左に折れるとジャラン・ゴータマという標識が見えた。けれどやはり何かが違った。舗装なんてされていなかったはずだ。もっと木々が生い茂っていたし、脇道に逸れれば谷底の小川まで下っていけたのだ。

ふと目に飛び込んだ看板の文字にぼくは思わず足を止めた。「DEWA WARUNG(デワ食堂)」。

見覚えのある文字の連なりに、一瞬にして記憶が蘇った。覚えている。当時ここはウブドでも最安値の食堂だった。

食堂のオーナーであるデワさんに出会ったのはスラバヤのバスターミナルだった。ジャワ島の旅を終えて初めてバリを訪れるぼくを心配し、デワさんの帰宅に便乗させてもらうことになった。彼はミニバスを1台チャーターしてくれ、旅の途中で悪化した皮膚炎の塗り薬まで買ってくれ、知り合いの画家のアトリエをホームステイ先として紹介さえしてくれたのだ。

でも、何かが決定的に違った。

違和感を覚えつつ、それでも懐かしさに負けて食堂に入ることにした。注文を取りに来た店の青年に思わずこんな疑問をぶつけた。

「この店、いつからここにあるの? 前は、そう、六年前はジャラン・スグリワにあったよね? 隣にはアリットさんていう女性の画家がいて……」

言ってしまってからなぜか悲しい気持ちになった。ぼくはいったい何を期待してこの村へ来たのだろう。何を探しにこの場所を目指したのだろう。もう変わってしまったのだ。消えてしまったのだ。今更ぼくはこの場所で何を。

苦い薬のようにぼくはそんな思いをひと息に飲み込んだ。

特に何かを口にしたいわけではなかったが、テーブルに座ってしまった以上そのまま席を立つわけにはいかなかった。六年前もよく頼んでいた生のライムジュースを見つけ、砂糖入れなくて平気だよと青年に伝えた。

奇妙なほどリアクションの薄いスタッフの背中を見送り、ふと向かいの通りに目をやった。そこでまたぼくは言葉を失った。バンコクの友人とビールを飲んだ店さえそこには無かった。あるのはバラック小屋のような寂れた商店だけだった。

いったい何が起こってしまったのだろう。エリックの知らないウブドはいつの間にかぼくの知らないウブドにもなっていた。

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