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未来 / タンジュンブノア(3)

2003/09/08

今朝もまた宿の近くの小さな惣菜屋でナシチャンプルを包んでもらった。細かなリクエストにも応じてくれるようだったが、注文はいつも「ひとつください」だけで足りた。

店の女性はぼくの姿を見つけると、無邪気に両手をひらひらさせて満面の笑みでおはようと言ってくれた。

大きな油紙の中央に山盛りのライスが乗せられ、店の女性は次々に惣菜を盛り付けていった。素揚げの青魚、豚肉の甘辛煮、ジャックフルーツのカレー煮、豆の葉とココナッツの和えもの、塩茹でのササゲ豆、小魚のフレーク、揚げたテンペ、二種類のサンバルマタ。

少食の人ならこれだけで三食分はありそうなボリュームだった。店の女性は油紙を器用に丸めたり折り曲げたりしながら綺麗な円錐形にまとめ、パチパチとホッチキスで止めてくれた。値段はわずかに7,000ルピア(約84円)だった。

ビン入りの甘い紅茶も追加してたっぷりの氷と一緒にビニール袋に移し替えてもらった。隙間に刺したストローで一口飲むと思わず笑みがこぼれた。

宿のテラスで包みを広げて遅めの朝食にした。海辺の防風林のすぐ上の空をいくつものパラセーリングが優雅に滑っていた。近くの梢から蝉の声が聴こえた。それはもう秋の入口の寂しさだった。

友人はすでにバンコクの日常に戻っているだろう。そしてぼくも自分の旅に戻らなければならない。明日からのことを思い、この旅が終わる日のことを思った。帰国便は三週間後に迫っていた。

旅そのものが返却日を気にしながら読み進める図書館の本のようだった。

太陽が西の空へ沈みかけた頃、ギターを片手にタンジュンブノアの街を歩いた。傍らにビールでも置いて誰もいない海辺で存分にギターを弾きたいと思った。

ヌサドゥアのように敷居が高いわけでもなく、かといって安宿街のような荒っぽさもないこの砂州の街をぼくは少しずつ好きになり始めていた。交わす言葉にもやりとりにも柔らかな丸みがあった。最初に必ず笑顔があり、それから陽気な言葉が続いた。

小ぢんまりとした土産物屋の前でハローハローとふたつの声で呼び止められた。立ち止まって頷くと、道端でタトゥーの図案を広げていた青年は土産物屋の店員であろう女性と顔を見合わせ、ぼくに向かってにっこりと微笑んだ。

片手を上げて笑い返し、勧められるまま隣に腰を下ろした。ふたりは仲睦まじく寄り添い、舗道の脇に座ってお喋りをしているところだった。

青年はエリックと言った。タンクトップから伸びる筋肉質の腕には所狭しとタトゥーが彫られていた。細い金属フレームの眼鏡を掛けた真面目そうな女性はカデという名前の大学生だった。

バリニーズの名前は一般に四種類しかなかった。長子から順に「ワヤン」「マデ(カデ)」「ニョマン(コマン)」「クトゥ」と続き、五番目はまた「ワヤン」に戻る。

「エリックは何番目なの?」

「ニョマンだよ。三番目」

そうぶっきらぼうに答えつつも、エリックは「よく知ってるね」と少年のように無邪気な笑顔をぼくに向けた。

しばらく彼らに混ざってインドネシア語でお喋りをした。カデは大学で日本語を学んでいて、日本のドラマや音楽が好きだと言った。会話のスピードが速くて難しいけれど、いつか話せるようになりたい、と。

こうやって思わず声を掛けてしまったのは、ギターを手にしたぼくを見てもしかしたら日本語で歌ってもらえるかも……と思ったからだと、カデは恥ずかしそうに告白した。

「カデの知ってる曲、ぼくも知ってたらいいんだけど」と、ギターのチューニングを調整しながら答えた。もし最近のヒット曲を言われてもぼくにはほとんど答えられなかったからだ。

幸いカデがリクエストしたのは藤井フミヤの「TRUE LOVE」だった。コード進行をきちんと覚えていたわけではなかったが、イントロのコードを探し当てると、あとは自然に通して歌うことができた。

「この曲、日本のドラマの主題歌だったでしょう? 綺麗なメロディ。大好きなの」とカデは言った。歌詞の意味を調べ、大学の授業で発表したこともあるのだという。

「まだぼくが高校生の頃だったかな。この曲もドラマもすごく人気だったんだよ。Cinta Sejati(真実の愛)」

まさかバリ島の砂州の街で『あすなろ白書』を思い出すことになるとは思わなかった。

もう一度はじめからひとつひとつのフレーズを確かめるように弾いた。ぼくの声に合わせてカデも探り探りメロディを口ずさんだ。時折エリックもメロディをつかまえて一緒に歌った。

三連符が続く「はるか はるか 遠い未来を」の部分で、カデは手のひらを自分の胸に当てた。そんな仕草がぼくの心を打った。彼女の胸に響いたのは未来という言葉なのだと思った。

ひと通り一緒に歌い終えると今度はエリックが照れくさそうにこんなことを言った。

「その曲ぼくに教えてくれないかな? だってタイラがいなくなったら困るよ。これから先、誰が彼女に歌ってあげたらいい?」

思わず頬が緩んだ。カデを見ると恥ずかしそうにうつむいて小さく微笑んでいた。エリックにギターを手渡し、もちろんだよ、とぼくは笑った。

タトゥーの図案の裏にローマ字で歌詞を書き、その上にコードネームを記した。フレーズごとに押さえ方を教え、エリックがたどたどしくギターを鳴らした。上手に弾けた部分にカデがメロディを乗せていった。はじめからおしまいまでふたりの横顔には柔らかな笑顔がこぼれていた。

ぼくたちは音楽を難しく考えすぎているのかもしれない。

本当は技巧的でなくたっていいし、主義主張なんて要らないはずだった。こうやってたったひとりのためだけに奏でる穏やかで愛に満ちた音楽があればそれでいい。

それが未来という言葉なのだと思った。

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