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潮騒ギター / ギリメノ(1)

2003/09/14

 午後四時半のパブリックボートまで待つつもりだったが、他の旅行者たちに話しかけられ、総勢五人でボートをチャーターすることに決めた。

 マフィアたちに恫喝される状況がとにかく不快だったし、このままでは神経が擦り切れてしまいそうだった。ぼくたちは我慢大会に来たわけではないのだ。さっさと島へ渡ってしまおうと結論を出した。

 ボートをシェアしたのはオーストラリアからの旅行者で、男性ひとり女性ふたりという編成で旅をしていた。恋人同士で旅に出ている旅行者には何度も出会ったが、こういう組み合わせはあまり見かけたことがなかった。

 羨ましいな、と正直に思った。こんなふうに性差を飛び越えられたらどんなに素敵だろう。もしかしたら、ぼくたちはもっと多くの大切なものに気付けるかもしれない。

 一人あたり15.000ルピア(約220円)でチャーターしたボートは、厳密に言えばアウトリガーと呼ばれる大きなカヌーだった。船体の両脇に竹製の浮きが取り付けられ、波と一体化しながらたゆたう素朴な構造の船だ。

 霧雨はいつの間にか雫の温度を感じられる雨に変わっていたが、いったん海へ出てしまうと、我々五人の顔には安堵の表情が浮かんだ。お互いに視線が重なると自然に笑みがこぼれた。

 友人は出し抜けにバックパックに右手を突っ込むと、急に悪戯っ子のように笑った。あろうことか、おもむろに取り出したのはタイウィスキーの大きなボトルだった。

 もう何度も思ったことだったが、友人のこういう心持ちが本当に好きだった。タイ航空の機内でわざわざ頼み込んで手に入れたというショットグラスまで取り出し、木の葉のように揺れるカヌーの上でぼくたちはストレートのウィスキーを交互にあおった。

 すっかり上機嫌の友人は両手を高く突き上げて「カンパーイ!」と叫ぶと、楽しくてたまらないと言うようにころころと笑い崩れた。そんな飲んだくれの戯れに船上は呆れた笑いに包まれた。

 雨脚がさっきよりも強くなった。すでに島の姿ははっきりと見えていたが、まだ着岸するまでには至らなかった。船頭の呼びかけで、後部に陣取っていたオーストラリアの彼らは船首へと移りはじめた。

 バケツリレーのように荷物が船首へ運ばれた。友人とぼくとでその仲立ちをした。最初にアングースという名の青年が移動し、続けてキャロライン、最後にジュリエットが立ち上がった。

 ウィスキーを飲んだことで気が大きくなっていたのだろう、最後の荷物をアングースに手渡したその手で、今度は彼女たちの手を取った。不安定なカヌーの上でふらつきながら、彼女たちは大きな笑みを浮かべてぼくの手を握り返した。

 カヌーはほどなく砂浜ぎりぎりの浅瀬に突き刺さるようにして停まった。港も桟橋もない島への上陸はこんなにも胸が踊るものだった。膝上あたりまでしっかり海に浸かりながら、ここでもまたアングースと一緒に彼女たちが船から降りるのを手伝った。

 キャロラインはアングースの肩に手を掛けて後ろ向きに飛び降りた。その隣で、ジュリエットはぼくに向かって抱っこしてという仕草を見せた。冗談なのはもちろん理解していたが、こんなにも早く打ち解けたことがたまらなく嬉しかった。

 友人に目をやると、雨をかばって代わりに抱きかかえてくれたギターを、ぼくの頭に向けて大きく振りかざしていた。そんな他愛もない仕草にみんなで笑った。

 ひとまず目の前にあった簡素なコテージにチェックインを済ませて荷物を降ろした。彼ら三人も同じ宿に決めたようだった。コテージのバルコニーから手を降ると、今度はジュリエットが両手を突き上げて「Wow!」と叫んだ。

 雨はまだかすかに降り続いていた。目も眩むような陽射しはぼくたちを迎えてはくれなかった。けれど、どうにか無事に島へ渡れた安心感が心を埋め尽くした。

 友人はさっそく明日のダイビングの予約に出かけた。軽やかな足取りの彼の背中を見送り、ぼくはコテージのデッキチェアに横になって旅の記録を小さなノートに記した。

 満面の笑みで戻ってきた友人の情報に従い、ビーチ沿いの小さなレストランで祝杯をあげた。嬉しいことにビールは凍えるほどよく冷えていた。魚のグリルを頼み、ウニのカレー煮を分け合い、テンペのフライをつまんではグラスをぶつけて笑った。

 夕闇に沈んだ海から潮のざわめきが聴こえた。夜風がビールで火照った肌を心地よく過ぎていった。

「大丈夫だよ、明日はきっと晴れるよ」と、ぼくはぽつりと友人につぶやいた。

「なんで?」

「前もそうだったんだよ。明日はきっと晴れるんだ。ぼくひとりじゃ駄目なんだよ、一緒じゃないと」

 我々はまたグラスをぶつけて勢いよくビールを喉に落とした。これ以上ぼくたちはいったい何を望めばいいのだろうと思った。

 コテージに戻ってからものんびりとビールのグラスを傾けた。帰り際に立ち寄った商店でよく冷えたのを四本買い、キャッサバチップスの小袋を分け合った。天から降り注ぐように聴こえる虫の音に包まれながら、バルコニーにぺたりと腰を下ろして終わりのない笑い話に興じた。

 促されるままギターを手に取って小さな声で歌った。彼のリクエストは懐かしのアニソンばかりだったが、あいにくぼくには歌えるものがひとつもなかった。

 カーティス・メイフィールドの『ピープル・ゲット・レディ』から始め、シネイド・オコナーやクランベリーズや川村結花を歌った。

「似合うなぁ、旅って感じやん」

 友人は笑いながらビールに手を伸ばして小さく掲げた。ぼくも曲の合間にビールやウィスキーを口に含んで喉を潤して笑った。

 夜風が椰子の葉擦れを誘って足早に通り過ぎていった。夜の静けさが一層その濃さを増した。背中から、誰かのささやき声のような潮騒が聴こえた。

 ぼくはふたたび目を閉じて、指先で弾くようにしてギターの弦を鳴らした。

 そうだよね、ひとりじゃ駄目な時もあるんだよ。もう一度ぼくはそんなことを思った。

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