柿渋染

学びほぐしと採寸:似合うセーターを編む

"unlearn"の日本語訳に鶴見俊輔の"学びほぐし"がある。

サイズの合わなくなったセーターをいちどほぐして毛糸にする作業が目に浮かぶ。そしてそこから今の自分の体格を採寸して、そのサイズに合わせて編み直す。とても丁寧な時間の流れを感じる。

これを学びに当てはめると、知識は一度得ただけで終わりではなく、それを使う自分自身の変化に合わせて柔軟に解釈を変えていっていい。むしろそうして自分に合わせていくべきなのだ、ということに気付かされる。

一方で日々の暮らしを考えてみると、サイズの合わなくなったセーターをほぐして毛糸にしたり、丁寧に変化した自分の体型を採寸する時間がない。そして新しいサイズに編み直す術も持たない。そんなことをしなくても新しい洋服が大量に安く売ってあるから、ほぐして編み直そうなどと考えすらしない。

学びについても、新しい事柄に新しい名前をつけて説明してくれる人が大量にいて、それを丁寧に要点だけまとめて紹介してくれるサービスもある。これらは便利だしそれなりに納得感があるけれど、私に合わせて採寸されていない。だから言葉にできない少しの違和感が残る。

この違和感が積み重なってくると、自分の五感を通して理解している世界と他人が言葉で切り取って説明してくれた世界の間に徐々にズレが生じてくる。やがてそれが大きくなっていき、いつのまにか他人が説明してくれた世界に自分を当てはめて過ごすようになっていまう。これはサイズの合わないセーターをいつも着せられているような状態なので、けっこう息苦しい。だから一旦ほぐして編み直すことがやっぱり必要になる。

学びほぐすにはきっかけがいるし、その術も必要になる。採寸するための時間があることもとても大事だし、何より、いちばんはじめに自分の着ているセーターが今の自分の体型には合わなくなっていることに気がつく必要がある。これはどうしたら起こせるのだろうか。

トランスローカル論は、文脈の異なる複数の地域をつないでお互いの個性的な地域性(ローカリティ)から学び合うことを目的にしている。セーターを編むのにもこちらは柿渋で毛糸を染めるけれど、むこうは葡萄で染めているとか。体型が違うから似合うデザインも違うはず。こういうことは同じ地域の2箇所で比べ合えばその差異は小さいだろうけれど、他国の風土がまったく異なるところと比べ合えばその差異は大きくなる。前者は背景が似ているので話の効率性の高い話相手(前提条件を説明する手間がない)、後者は話の多様性が高い話相手。今着ているセーターを見たことのないCOOLなデザインに編み直すには多様性を持ち込んでくれる相手に相談するのがよさそうだ。

自分と大きく違う相手と話をするとき、明確になるのは実は自分のこと。トランスローカル論では「地域の文脈(ローカリティ)」と言っているけれど、「個々のルーツ」と言ってもいいかもしれない。

今着ているセーターが自分に合っているのかを知るためには、自分の体型を採寸しなければならない。さてここで採寸しているものはいったい何だろうか。いくつもunlearnしていったあとに残るものは何だろうか。これがローカリティで、私たちはこれを採寸しなければ似合うセーターを編めない気がする。


つづく。









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