1

  精神科に行ったら、まず血液検査をされ、尿検査をされ、心電図を撮られ、あと何があったか忘れたが、健康診断のような一連の流れのあとで一番最後にCTを撮られた。そのあとでもう一度診察室に戻り、簡単な問診とチェックテストがあり、ああでもないこうでもないと話し合ったあとで、今年起こった自分にとって重大な事件とか、自分の身に起こった一番大きな変化とか違和感とかで心当たりのあることがあったら、なんでもいいから次の診察の時までに書いてきてみてもらえますか、簡単でいいですよ、と医者に言われた。それでこれを書いている。医者は箇条書きでいいですからね、難しく考えないでくださいね、と繰り返したが、箇条書きなんて無理だ、今年一年のことをそんな簡単に済ましてしまうことはできない。まずどこから始めたらいいかわからないから、どこから始めるかということを決めるために1ページ書かなくてはいけない、それが決まったら今度はどうやって始めるかについて1ページ、それでようやく整ったら3ページ目から本文、始まりから1ヶ月ごと10ページくらいのボリュームじゃないととても書けない。読ませるためのものなのだから、医者が読みやすいかどうかということをもしかしたら優先すべきなのかもしれない。しかし、この文字の羅列の具合によってわたしの医学的な立ち位置が決まるのだとすれば、いい加減なことは書けないし、慎重にならなくてはいけないし、読みやすさなんて優先している場合ではないのだ。読みやすくなくてもいい、最悪読めればいい。それよりもできるだけ正確に書きたい。
 もしかしたらこういうのを病理というのかもしれない。
  

 あの日、新橋の駅で飲み会のあと、まるで歳の離れた妹に接するように、優しくまっすぐに目を合わせてくるその眼差しを、この人はたぶん、誰にでも向けるのだろうなと思った。通りすがりの犬にも、キャバクラのねーちゃんにも、クラスの隅で本読んでるような子にも、昨日クラブでナンパした看護師にも、きっと誰にでも平等に向けるのだろうなと思った寂しさと、その寂しさに負けない純粋な優しさの粒みたいなものを心のなかでざらざらと感じながら、わたしは勝手に落胆した気持ちで家路についていた。その時にわたしは知った。たぶん、失恋ってこういうものなのだ。1回もしたことないけど。そしてたぶん、これからもしないけど。
 人に好かれるだろうなと思ったけれど、嫌われるだろうなとも思った。社交的な人だなと思ったけれど、孤独な人なのだろうと思った。いい人そうに見えて、実際いい人なのだろうなと思った。悪い人のように見られるだろうけれど、本当は悪気はなくて、とても真面目で実直な人なのだろうと思った。その日初めて会った誰かに対してそんなに具体的で、お節介みたいな論評を下すのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。友達は多い方だと思うけど、一番最初の最初から、2文以上にわけて他人について考えることなどほぼない。おもしろい人、とか、気が弱いけどちょっと優しい人、とか、だいたい最初の人物評価ってそんなものだ。面接じゃないんだし。もしかしたら大昔にはどこかでそういう長い人物評価をしてたかもしれない。でもわからない。そんなのは幻想かもしれないし。でも幻想だっていい。
 適切か不適切かといったら、それはもちろん適切じゃないんだと思う。だってまだあの人のことよく知らないし、名前と顔くらいしか確実な情報はないし。早すぎるジャッジは危険すぎる時代だし、あと別に時代とか関係なく浅はかだと思う。浅はかな人間になりたくはないなあ、と過ぎていく電車の窓の外の夜景をぼんやり見つめながら思うくらいには、まともな教育を受けてまともな大人になったつもりだ。何がまともかなんて、本当にはわからないけれど、少なくとも自分の受けてきた教育だけがまともだと思わないくらいの良識は持ち合わせている。適切なわけないよな。あの人の人格を、勝手に想像して創りあげて、まあそこまでは全然いいとしても、こちらで創りあげた人格に基づいてこちらの尺度で判断したり同情したりするなんてばかげてる。誰もそんなこと求めていないし、するべきでもない。わかっている、でもなぜかやってしまうんだ。もうやってしまったんだ。わたしに神様がいたら、今夜寝る前にこの罪をおゆるしくださいってお祈りするんだろうか。でもわたしには神はいない。今のところ。