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塔 月詠/2021.6

噛み殺すことはもうないあかときの欠伸の奥に心臓がある

きみは知らないだろうけど寝室の冷蔵庫は鼾をかきやがるぞ

何度でもつくってほしいから名前なんだっけって呼ぶその煮込み

人間と話すの好きじゃないのかな、と評価を受ける 26マス戻る

春雷を見たという花のつぶやき 紫に走ったらしい、恋が

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 今月の掲載は五首。
 3月半ばに送った詠草十首が選を受けて、掲載された。

 しかし実のところ、自分がどんな歌を送ったのか、まったく、全く記憶になかった。さっき届いた「塔」の誌面から探して、そういえばこんな五首をつくったっけか…………まあつくりそうだしつくったんだろうな……なんとなくつくった気がする……みたいな感じ。

 締切に間に合うよう、深夜にTwitterのタイムラインと行き来しながら直接、詠草用紙(月詠は所定用紙の郵送しか認められていない!) (なんとかオンライン入稿できるようにできないかなあ) (あと誌面データのPDF/eBooks提供もあるとうれしい……後者の方が出来そうな気もするがともかく現状では指定の詠草用紙)に書き込んでいったので、手元にメモが残されていなかった。

 先日、これまでにつくった歌たちをEvernoteからOnenoteに集約した。
 それに合わせて1月からの月詠も専用のOnenoteノートブックを作って書き留めるようにしているのだが、さっそく3月にして送った十首欄が空になってしまった。わはは。
 掲載されていない残り五首はもう本当に意識の外にしか無いことになってしまったわけだが、それもまた、いつか何かの折に、ぼくの思考の端っこにうっすらと滲むのだろう。

 数日前に、Twitterの短歌界隈(のうちぼくに観測できる範囲のいくらかのアカウント)が、"地の歌"や"連作"概念について盛り上がっていた。同概念に関する基本的なぼくの感触はぬるっとツイートしたとおり。もうすこし色々しゃべりたい気もする。

 歌会がオンライン化されて、遠方の方や時間都合のつけづらい方ともやりやすくなった恩恵の一方、会のあとにお酒を飲んだりしながらダラッと近頃の考えをお互いに話すような時間が取りにくくなってしまってすこしさみしい。オンラインでもそういう時間(や流れ)を設けている歌会も無くはないらしいけど、基本的にはひとつの話題についてひとりずつが発言する形式になってしまうから少し苦手だ。画面の前でじっとしているのも難しくて、オフラインなら適当に料理をつまんだり隣の人と違う話をしたりもできた離脱ができない。

 自分が大学の短歌サークル出身だからなおさら感じるのだろうが、この時勢で文化や知識の継承が難しくなってはいないかとすこし気になる。
 卒業までいた短歌会には他大から通っていた身なので、阪急京都線または京阪電車と、滅多に時間通りに来やがらない市バスを乗り継いで鴨川を渡って向かう、身体の移動によって思考を切り替えるような儀式めいた1時間半をたびたびやっていた。その道中と歌会、そして解題の話や近況やらを話しつつの会員たちとの食事で得たものは少なくなかった。
 卒業後には現役会員たちの歌会に顔を出さないと決めていたし決めているのでもう何の接点もないが、皆々がいまもこれからも短歌を楽しんでくれていればよいなと思う。

 ぼくも楽しみたいので、まあ締切がなくてもたまにつくるし、たまに歌会をするし、短歌をやるひとたちとおしゃべりもしたい。歌会後のおしゃべり、もうちょっと工夫してなんとかやりやすくならないかなあ。


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